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【団栗の背競べ】(どんぐりのせいくらべ) [日刊☆こよみのページ]

【団栗の背競べ】(どんぐりのせいくらべ)
 どれもこれも似たようなもので、大したものではないこと。また、大きなちがいはないこと。《広辞苑・第六版》

 恥ずかしながら、結構な年になるまで「ドングリの木」という種類の木があると思っていました。その「ドングリ」という種類の木に生る実がドングリの実だと思っていたのです。「ドングリの木」と思っていた木がクヌギと呼ばれる木だと知ったときにもドングリはクヌギの異称くらいに思っていました。でもクヌギ以外の木、例えばカシやナラの木に生る実も、「ドングリ」だというのを知って、驚いたことを覚えています。私からすると、形は似ていても小振りのカシの木の実などはドングリの仲間には入らないと思っていたからです。そして知ったのが、ドングリ(団栗)はクヌギやカシやナラといった木に生る実の俗称だったということです。つまりドングリという種類の木があるわけではなかったのです。こんなあたりまえのことを知るまで、私は20年くらいかかってしまいました。ぼんやり暮らしているんですね。

◇ドングリ独楽(こま)
 形状やその質感から考えると、私がドングリとは思わなかったカシの木の実も確かにドングリなのですが、どうしてもそう思えないのは形ではなくて大きさの違いによるものです。私にとっては、ドングリの価値はその大きさにあったからです。子供の頃に学校の行き帰りに拾って帰るドングリは、大きくてずんぐりしたものが多かったように思います。理由は簡単。そうしたドングリがドングリ独楽にするのに適していたからです。大きなドングリを集めては、家に帰って錐でドングリに穴を開け、その穴に爪楊枝や竹ひごを刺して独楽にし、これを回して遊ぶのが好きでした。私にとってのドングリの価値が大きさにあり、ずんぐりしたものを好んだのも、少しでも長く回り続けるドングリ独楽を作ることが出来るものこそよい「ドングリ」だったからでしょう。ドングリの価値は、よいドングリ独楽が出来ることで決まるとすると、小さなカシの木のドングリはドングリじゃなかったわけです。

◇「同じようなもの」じゃないけど?
 よいドングリ独楽を作るために、いろいろなドングリを見比べていた子供の私には、「団栗の背競べ」という言葉の意味は分からなかったと思います。だって、ドングリの実はどれ一つとして同じではなく、同じ木の同じ枝に生ったドングリでさえ、一つ一つ違っていて、似てなんかいなかったのですから。千差万別といえるほど様々な形や大きさのあるドングリを「どれもこれも似たようなもの」だの、「大したことのないもの」だというのは、それをいう者に見る目の無いことを物語っているだけだと思います。いくつものドングリを並べて背競べをさせたら、「どれもこれも同じようなもの」なんて簡単にいうことはできないことに気づくはずです。私達だって、多分団栗の背競べ。でも、人それぞれに違いがあって、それぞれに特徴があります。それに気が付くかどうかは、どれくらい真剣にそれを見ているかという見る側の問題なのでしょう。そういえば、家の近くにカシの木が生えていました。子供の頃には小さすぎて独楽にするには今ひとつと、ドングリの数に入れなかったカシの木のドングリですが、今日は拾ってきて並べて眺めてみようかな? 独楽としての価値以外の尺度でもって見直したら、カシの木のドングリも立派なドングリの一つだと、理解できるかも。「歳五十にしてドングリを知る」なんてね?(「2019/11/11 号 (No.4790) 」の抜粋文)

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