SSブログ

【葛の裏風】(くずの うらかぜ) [日刊☆こよみのページ]

【葛の裏風】(くずの うらかぜ)
 クズの白い葉裏を返して吹く風。赤染衛門集「かへりもぞする葛のうら風」《広辞苑・第六版》

 葛はその根から葛湯や葛餅の元になるデンプンが得られること、蔓からは繊維を取り出して布を織ることが出来ることなどから、古くから人の生活に密着した植物でした。太陽の光をことのほか好むこの植物は、陽の当たる山の縁辺部や、街中では線路脇の砕石の間などに生える姿を目にします。葛といえば、春の終わりから夏の初めにかけて紫色の花をつけますが、この花はきれいな割にあまり注目されることはないようです。あまり注目されない理由は、その花を隠してしまうほど大きな、そして多くの葉っぱが葛の全体を覆っているからでしょう。葛の裏風とは、この大きな葛の葉を裏返すように吹く風のことです。葛の葉は表面が緑色で裏側が白っぽい色をしているので、葉が裏返るとそこだけ色が違って目立ちます。夏の炎天の下で、土手を覆い尽くす無数の緑の葛の葉の海を、白い波が渡って行く光景は、そこを風が吹きすぎていることを示しています。こんなよく見かける葛の葉ですが、暦とは多少の繋がりを持っています。

◇葛の葉
 葛の葉と暦とは、平安時代の伝説的陰陽師、安倍晴明(あべのせいめい)によって結びつきます。安倍晴明は、暦や天文を統括した陰陽寮で活躍しました。その子孫の土御門家(つちみかど)は明治の初めまで暦道の大家として日本の暦の作成にかかわることになりました。そして「葛の葉」ですが、これは土御門家のご先祖様、安倍晴明を産んだ女性の名前とされます。どうです、暦と関係がありましたね(無理やり)。安倍晴明の母とされる女性は実は、清明の父、安倍保名に助けられた白狐が美女に化けたもので、人間に化けたときに名乗った名前が「葛の葉」だったのです。この「葛の葉」は保名の妻となり、やがて清明を産むことになります。しかし、その正体が狐であるとばれる日が来て、この白狐は

  恋しくば尋ね来て見よ和泉(いずみ)なる 信太(しのだ)の森の恨み葛の葉

 の歌を残して、古巣である信太の森に帰っていったそうです。この歌にある「恨み葛の葉」ですが恨みの語は

  恨み → うらみ → 裏見

 と連想できることから、歌では「恨み」を「裏見」にかけて詠むことがあるそうです。葛の葉の裏を見せる風を「葛の裏風」も、裏見の風。葛の葉と名乗った清明の母の思いは今も風となって葛の葉の上を吹きすぎているのかもしれません。広辞苑の用例で引かれている赤染衛門集の歌は

  うつろはでしばし信太(しのだ)の森を見よ かへりもぞする葛のうら風

 これは、赤染衛門から和泉式部に贈られたもので、「葛の葉」の伝説にかけて詠われた歌でした。あちこちに生え拡がって、その旺盛な生命力の葛。拡がった葛の葉陰の何処かに狐が隠れているかも知れないなんて想像しながら、葛の裏風が吹く様を眺めてみると、暑い夏でも気持ちよく、楽しく過ごせるかも知れませんね。(「2019/05/24 号 (No.4619) 」の抜粋文)

nice!(1)  コメント(0) 

タマネギの収穫です! [菜園便り]

黄玉、赤玉タマネギの収穫です
苗は黄玉150・赤玉50本を植えたが、歩留まり良好(*^_^*)
出来具合は昨年ほどではなかったが、中玉の数が多く穫れました

190522no1.JPG

190522no2.JPG
nice!(0)  コメント(0) 

【立葵】(たちあおい) [日刊☆こよみのページ]

【立葵】(たちあおい)
 1.アオイ科の観賞用多年草。アジア原産。高さ 2メートル、葉は心臓形で、縁は5~7に浅裂、
  葉面に 皺(しわ)がある。春夏の頃、葉腋に紅・白・紫などの美花を開く。園芸品種が多い。
  ハナアオイ。 ツユアオイ。ホリホック。蜀葵。夏の季語。
 2.エンレイソウの別称。
 3.紋所の名。茎のある葵の葉3個を杉形(すぎなり)に立てたもの。《広辞苑・第六版》

 5 月も後半となり、背の高い立葵が蕾をつけ始めました。まだまだ硬く小さな蕾ではありますが,、葵は初夏の頃に花を咲かせます。高さは 2メートルにもなりますから、すっくと立つその姿を眺めると余程背の高い人以外はみな、見上げるような角度で眺めることになります。初夏の空を背負うようにして桃色や白色の大きな花を咲かせる立葵の姿は、子供の頃に見上げた大人の姿を連想させます。何でも知っている大人、何でも出来る大人、そんな子供の目からは畏敬の対象だった大人の姿が、立葵から連想してしまいます。梅雨葵はこの立葵の別名。この名前は、梅雨の頃に花をつけるところから生まれたものでしょう。この花はまず最初に根元に近い蕾から花が開き、日を追うように下から順に先端部の上へと花が開いて行きます。この花の時期が梅雨の時期とよく合っているのだといいます。江戸時代に書かれた『世事百談』と言う書物には、梅雨入り、梅雨明けの時期がはっきりわからないときには、立葵の花が根元から咲き始めたら梅雨入り、だんだんと標(すえ)の方に咲き終わる時期を梅雨明けとすればよいと梅雨入り、梅雨明けの目安の植物として紹介されています。大人を思わせる背の高い立葵はやはり何でも知っている花のようです。散歩していたら、蕾をつけた立葵を見掛けました。蕾はまだ小さく硬いものでしたので、この立葵が梅雨の季節を知らせてくれるのは、もう少し先のことのよう。後どれくらい先かな?すっくと立った立葵の先に拡がる青空を見上げて、そんなことを考えたのは昨日のことでした。(「2019/05/19 号 (No.4614)」の抜粋文)

nice!(1)  コメント(0) 

みみず出ずる頃 [日刊☆こよみのページ]

■みみず出ずる頃
 七十二候を見ていると、面白いものが転がっています。「みみず出ずる」もそうしたものの一つ。2019年では5/11 ~ 5/15がその期間にあたります。この「みみず出ずる」は漢字で書くと「蚯蚓出」。そのまま「キュウインイズ」と読んでもいいのですがキュウインでは 吸引? なんて誤解を生みそうですので、「蚯蚓 = みみず」ですから素直にみみず出ずるとしております。「みみず出ずる」は七十二候の20番目。二十四節気との組み合わせでいえば立夏の次候ということになります。ちなみに、二十四節気の一つの気の中に七十二候が3つあり、その最初を初候、次を次候、最後を末候と呼びます。「立夏の次候」というのはこの方式での呼び方です。

◇七十二候
 もともとの七十二候は他の多くの暦の要素同様に中国から伝来したものでした。この点では二十四節気などと同じです。二十四節気と違っているところがあるとすれば、それは二十四節気が中国伝来の言葉が今もそのまま使われ続けているのに対して七十二候は大分日本風に改良(?)されていること。中国からの伝来当時の七十二候には、田圃のねずみがウズラに変わったり、草が蛍に変わったりと、なかなかすごいものもあって楽しいのですが、そのまま使い続けるにはあまりに荒唐無稽なものは別の言葉に置き換えられていったようです。またそうした変更と同時に、日本の風物に合わせる置き換えも行われたと考えられます。

◇「みみず出ずる」は由緒正しい言葉?
 七十二候は変化してきていますとさんざん書いておいて今更申し訳ないのですが、本日の「蚯蚓出」はこうした日本的な修正の荒波を乗り越えて生き抜いた中国伝来そのものの七十二候の言葉です。中国から伝来した昔からずっと「蚯蚓出」。冒頭に書いたとおり、流石に「キュウインイズ」では意味が分からないので読みだけは「みみずいずる」としておりますが。近頃は大分暖かくなってきましたから、雨の降った日の翌日などには、畑や庭の土の中から這い出して来るみみずを目にすることでしょう。(「2019/05/13 号 (No.4608) 」の抜粋文)


nice!(0)  コメント(0) 

【五月晴れ】(さつきばれ) [日刊☆こよみのページ]

【五月晴れ】(さつきばれ)
 1.さみだれの晴れ間。梅雨の晴れ間。
 2.5月の空の晴れわたること。また、その晴れわたった空。 《広辞苑・第六版》

 よく使われる言葉でもあり、またよく誤用の例として採り上げられる言葉です。今でも1の意味が本来の意味で、2の意味で新暦の5月に使う場合は、「誤用」と言われることをある程度は予想しなければいけないようです。「五月と書いて「さつき」と読む場合は陰暦での五月を指す」、季語の解釈とすればこれが伝統的なもののようです。

◇「さつき」と「五月」
 暦の話として考えると睦月、如月、弥生・・・などの和風月名は自然暦と呼ばれる素朴な暦から発していたと考えられます。草が元気に生える月だから弥生(草木いや生いる月)、「さつき」はといえば稲作と強く結びついた言葉で、稲作の作業が始まる月という意味だろうと言うのが一般的です。こうしてみると、卯月、弥生、皐月(五月)という言葉には直接順番を表す意味は見あたりません。皐月(さつき)はあくまでも田んぼの季節の始めということを意味しただけでしょう。それが中国から輸入した暦で見ると大体「5番目の月」である五月と一致することから長い間に、「さつきといえば、五月」と考えられるようになり、「五月(さつき)」と読むまでになったと考えられます。

◇言葉は変わる?
 田んぼの始まる季節が「五番目の月」だった旧暦の時代には五月は(さつき)で問題有りませんでしたが、現在の暦では平均して月の並びが約1月分早い方向にずれてしまいました。季語はその季節を想起させる言葉でしょうから現在の暦での「5番目の月」を「さつき」と呼ぶことに抵抗が有るのは判ります。ですが、「さつき=五月」と書く習慣も容易に無くなるとは思えません。そして現在の5月。それは初夏の清々しい青空の広がる季節。この暦を使う時代に生きて、5月といえばこの清々しい季節を思い出す人が増えて行けば、やがてこの新暦の5月の青空が「五月晴れ」と呼ばれても、誤用とされることのない時代が来ると思います。伝統的な季語を大切にすることも、自分たちの感覚を新しい季語として取り入れて行くことも、どちらも大切。一方だけが正しいとは言えません。言葉は人間の暮らしとともに変わって行くものなのだなと、そんなことを考えさせてくれる「五月晴れ」でした。(「2019/05/09 号 (No.4604)」の抜粋文)
nice!(0)  コメント(0) 

【薄暑】(はくしょ) [日刊☆こよみのページ]

【薄暑】(はくしょ)
 初夏の、やや汗ばむような暑さ。夏の季語。《広辞苑・第六版》

 「超大型」と形容された四~五月の連休も終わり、立夏も過ぎて暦の上では夏。暦の上の夏にあわせるかのように、今朝は太陽が張りっ切って、雲一つない空から、その強烈な日差しを送ってきています。この様子だと、今朝は暖かい一日ではなくて、暑い一日になりそうです。五月も半ばに差し掛かる頃になると、今朝のように日射しに汗ばむような日が有ります。ただし、汗ばむといっても、うっすらにじむ程度の汗。そのうっすらとにじむ汗が、かえって風のありかを教えてくれる程の、ある意味心地よい暑さ、それが薄暑です。五月半ばの平均気温は20℃程となり、木々のみどりを示す言葉は新緑より万緑が似合うようになってきて、本格的な夏が近づいていることを感じられるようになってきます。こんな季節に書く手紙には「薄暑の候」がその書き出しに使われることも多いのでは?「薄暑」という言葉が広く使われるようになったのは、大正時代のことだそうなので、言葉としては比較的歴史の浅いもののようですが、今では季節をよく表す言葉として、定着しているようです。(「2019/05/08 号 (No.4603) 」の抜粋文)

nice!(0)  コメント(0) 

立夏 [日刊☆こよみのページ]

□立夏
 本日は、立夏。立夏は太陽中心が視黄経45度を通過する日。旧暦四月節。八節の一つです。立夏は、暦の上での季節の始まりを示す立春・立夏・立秋・立冬の一つで、夏の始まりを示す日です。「立」は旅立ちなどで使われる「立」。始まりを表す言葉です。立春・立夏・立秋・立冬という 4つの「立」を総称して四立(しりゅう)といいます。四立と、冬至・夏至・春分・秋分の二至二分(にしにぶん)をあわせると、八節(はっせつ)となります。二至二分にはそれぞれ、目に見える特徴があります。冬至・夏至はそれぞれ太陽がもっとも南、あるいは北から昇る日で、昼がもっとも短いあるいは長い日です。春分・秋分は太陽が真東から上り真西に沈む日で、昼と夜の長さが同じになる時期でもあります。それに対して、同じ八節の仲間であっても四立には、そうした目に見える何かはありません。四立は、太陽の動きなどとは直接関係なく生まれたものなのでしょう。二至二分は四季といわれる 4つの季節のそれぞれの極み。季節の中心と考えられるものです。だとすれば季節の中心と中心の中間地点は、季節の始まりであり終わりの時点を示すものだと考え、この季節の始点でありまた、終点でもある点に四立の名を与えたものと考えます。つまり同じ八節にあっても、

  ・二至二分は暦を作るためのもの
  ・四立は暦が出来て以後生まれたもの

 という違いがあるのだと私は考えています。四立にだって例えば「太陽中心が視黄経の45°を通過した日」という天文学的な意味があるではないかと仰る方もいらっしゃるでしょうが、この定義は後から「四立に相応しい明確な定義」として作られたものであって、四立の成立に先立つものではありません。二至二分より、四立の方がより暦的な記述と言えそうです。二至二分と四立の八節がやがて、月の満ち欠けから始まった一年を12の月に分割する方式と出会って生まれたのが、おなじみの二十四節気。暦がどんな風に発達してきたのだろうかと、夏の初めのこの時期に、その誕生の過程を推理してしてみても面白いですね。ちなみに、夏から秋へとバトンタッチとなる立秋は 8/8。94日後のことです。(「2019/05/06 号 (No.4601) 」の抜粋文)
nice!(1)  コメント(0) 

【二季草】(ふたき ぐさ) [日刊☆こよみのページ]

【二季草】(ふたき ぐさ)
 藤の異称。蔵玉集「ときはなる花とも見ばや二季草松にのみただかかる名なれば」 ≪広辞苑・第六版≫

 先日、藤棚から垂れ下がる薄紫色の藤の花房を眺める機会がありました。よく晴れた青空の下に、風に揺れる藤の花房。初夏らしさを感じさせてくれる眺めでした。

◇藤と人との関わり
 藤は有用な植物として古くから、藤の蔓や皮は丈夫な綱としたり、繊維をとりだして荒栲(あらたえ。「荒妙」とも書く)と呼ばれる目の粗い織物の材料として使われていました。また、その長く垂れ下がった花房の形は実った稲穂を連想させるということから豊作を約束する目出度い花とされ、日本人にとって藤はなじみの深い植物、そしてなじみの深い花なのです。

◇春と夏、二つの季節の間に咲く花
 藤は春と夏の二つの季節の間に咲く花であることから「二季草」とも呼ばれるようになったそうです。『明治の作家斎藤緑雨が「青皇の春と、赤帝の夏と、行会の天(ゆきあいのそら)に咲くものなれば、藤は雲の紫なり」と書いている。』お天気博士として知られる倉嶋厚さんの「季節の366日話題事典」という本にこの一文を見つけました。「青皇の春と赤帝の夏」とは、五行説による季節の色(春:青、夏:赤、秋:白、冬:黒)を踏まえた言葉です。青色の春と赤色の夏の行合う空に咲く藤の花は、春の色と夏の色が混ざり合った紫いろなのだとは、面白い説明です。

◇藤の花の開花時期
 四月の終わりごろになると、長い藤の花房に花が開きだします。五月の上旬には立夏を迎え、暦の上では季節は夏となりますから、四月の終わりは、春と夏の交代する時節ということができます。なるほど、二季に咲く花です。全国の気象台が毎春、桜の開花時期を発表していることは皆さん、よくご存じのことでしょう。気象庁ではこうした生物季節の観測を行っており、いくつかの植物については、地域ごとにその開花時期をまとめています。藤もそうした植物の一つ(藤の場合は、日本各地に普通に見られる「ノダフジ」についてまとめられています)。前出の倉嶋さんの著作には、気象庁の生物資料によるノダフジの開花平均日も載っていました。それをそのまま使わせて頂くと、
 
  宮崎 4/09、 京都 4/23、 東京 4/23、 長野 5/04 、  盛岡 5/22、 青森 5/22、 函館 5/30

 のようになります。藤の花が咲きだせば、野山の上でも季節は春から夏に変わってゆきます。皆さんのお住まいの地域では、藤の花はもう咲きましたか?(「2019/05/04 号 (No.4599)」の抜粋文)


nice!(0)  コメント(0) 

夏も近づく八十八夜 [日刊☆こよみのページ]


 明日は八十八夜。
 八十八夜といえば、小学唱歌の「茶摘(ちゃつみ)」の歌が思い出されます。

  夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは茶摘じゃないか
  あかねだすきに菅(すげ)の笠

  日和つづきの今日此頃を 心のどかに摘みつつ歌う 摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
  摘まにゃ日本の茶にならぬ

 実際には茶摘みの風景など見たこともないのに、子供の頃からこの歌を唱っていたためか、八十八夜と聞くとつい、姉さんかぶり(きっと「菅の笠」が想像出来なかったからでしょう)の茶摘み娘がお茶の葉を摘む姿が目に浮かびます。しかも、バックは青空を背景とした富士山。きっとTVドラマの水戸黄門のエンディングか何かで見た映像でしょう。

◇八十八夜とは
 この八十八夜は暦の上では「雑節(ざっせつ)」と呼ばれるものの一つです。日本では長らく中国から伝わった太陰太陽暦が、そして明治以後は西洋から輸入され太陽暦が使われてきましたから、暦に書き込まれる様々な情報の多くは、舶来ものなのですが、雑節は国産品です(「半夏生」のような、微妙なものもありますけれど)。八十八夜に関しても、日本独特の記述で中国などの暦には見られません。八十八夜は、昔は稲作の始まりの時期の目安であり、また最後の霜降りの時期の目安でもありました(関東以西では。甲信越、東北や北海道などでは、まだまだですね)。どちらの意味においても農業の上では重要な節目となる日ですから、これを忘れないようにと暦に取り入れられたもの、暦の示す月日と実際の季節とを結びつけるための季節点(季節の目印)の一つです。ちなみに、この八十八夜の「八十八」は組み合わせると「米」という文字になります。また、「八」は末広がりの目出度い文字ということもあって、稲作りの始まりの時期の目印として八十七夜でも八十九夜でも九十夜でもなく、八十八夜にあたる日が選ばれたようです。

◇八十八夜は太陽暦?
 八十八夜は、立春の日から数えて88日目。今年の立春は 2/4ですから、八十八夜は本日、 5/2です。このメールマガジンの読者の方には既に常識だと思いますが、この八十八夜の計算の基点となる「立春」は太陽の位置で決まります(太陽の中心の黄経が 315°となる日)。基点となる立春が太陽の位置で決まり、あとは一定の日数(87日)だけ離れた日が、八十八夜になりますから、八十八夜も太陽の位置で決まってしまいます。大体太陽の視黄経が41°あたりになります。新暦では、 5/1か 5/2あたりが毎年八十八夜になります。新暦では毎年ほとんど同じ日付になってしまうため、立春からの日数をわざわざ数えなくとも、 5月に入ると、その日かその翌日が八十八夜。わざわざ数えるまでもなくなったために特記する必要もなくなり、暦の上での八十八夜の存在感は薄らいでしまったようです。

◇夏も近づく八十八夜
  5月に入って早々に「夏も近づく」といわれると、ちょっと気が早すぎるような気がしてしまいます。「茶摘」を唱っていた小学生(の低学年)の頃もこの点は何か引っかかっていました。小学生の感覚からすると、夏は夏休みがある7~8月でしたから 5月じゃないよなと感じていました(ま、といいながら「夜も眠れないほど深く悩んだ」わけじゃないですけどね)。大人になった今は、茶摘の歌詞の「夏も近づく」とは、暦の上の夏の始まりである立夏の日を意識したものだとわかりますから、小学生の頃の私の浅い悩みは解消いたしました。ああ、安眠できます。立夏は八十八夜の基準となる立春と同じく太陽の位置で決まっています。よって、八十八夜と立夏の関係も新暦(太陽暦)では大体いつも同じ。八十八夜の大体3~4日後(今年は5/6ですから 4日後)あたりが立夏です。夏も近づく八十八夜。まさにそのとおりですね。

◇八十八夜と茶摘み
 茶は、中国の西南部が原産地だとされています。もともとは「薬」として輸入され、平安時代には宮中ですでにお茶が飲まれていたそうです。もちろん当時は薬効のある飲み物として。(暦とは無関係ですが、紅茶も緑茶も基本的には同じお茶の木の葉。そこからの製法、発酵の度合いの違いだそうです)現在のような喫茶の習慣が定着したのは鎌倉時代から。僧の栄西が中国から抹茶を持ち帰り、これを飲むことが寺院を中心に広がり、やがて武士などにも広がっていったものです。ただこの辺まではまだ「お茶を飲む」のにも手間がかかっていましたから、それこそ「日常茶飯事」というくらい手軽にお茶を楽しめるようになったのは、江戸時代の初め頃に煎茶の製法が確立されたからとか。特に八十八夜の頃に摘まれたお茶の葉で入れたお茶は甘く上等であるといわれたことから、この日に茶摘みを行うという行事も生まれたようです。また、この日に摘まれた新茶は贈答品としても喜ばれました。ただし先に書いたとおりお茶は鹿児島から新潟までと広い範囲で栽培されていますから、どこでも彼処でも八十八夜のお茶がよいわけでは有りません。それぞれの地域にあった「旬のお茶」を楽しむのが一番です。とはいってもどの地域でも、あと一月もすれば、新茶が出回るようになるでしょうから、美味しい新茶をいただく場面を想像しつつ、本日の暦のこぼれ話を終えることにします。(「2019/05/02 号 (No.4597)」の抜粋文)
nice!(0)  コメント(0)