SSブログ

雑節 「二百十日」 [日刊☆こよみのページ]

■雑節 「二百十日」
 暦の上には悪日と呼ばれる日があります。悪日とは運の悪い日という意味もありますが、運だけでなくて「何かに特に注意しなければならない日」という意味もあります。明日、8/31(2021)は立春から数えて 210日目。二百十日です。二百十日も暦の上の悪日の一つで、こちらは運ではなくて「嵐に注意」という日です。

◇二百十日は嵐の日?
 二百十日といえば、昔から嵐の来襲する日ということで恐れられた日です。暦の上では雑節の一つとして数えられる悪日です。「今日は暦の上では○○ですが、実際には××」という表現は暦と実際の気候(というかその気候の感じ方)が異なる場合の常套句で、天気予報などでは頻繁に耳にする言葉です。もちろん「××」の箇所は「○○」を否定する言葉となります。この記事を書くために気象庁サイトの実況天気図を見ると「明日は暦の上では二百十日、嵐の来襲が心配される日ですが実際には好天となりそうです」と、この陳腐な表現形式で否定出来そうかな気圧配置でした。しばらくは日本に影響しそうな台風は見当たりませから、今年の二百十日は静かな一日になりそうです。現在は便利な時代。今日の私がしたように、気になればすぐにその日の天気図を見ることのできる(ラジオの気象放送を聴きながら自分で天気図を書かなくても)ようになりました。こんな時代ならお、今日は二百十日。船で沖に出るときには注意しておいた方がいいな。なんてことを気にしなくてもよいわけですが、気象衛星やインターネットどころか、天気図なんてものがなかった昔には、こうした注意喚起のための情報を提供する機能も暦には必要だったのでした。ちなみに日本で独自に作られた最初の暦、貞享暦(貞享二年(1685年)~)には立春から数えて二百十日目というこの「二百十日」が雑節として採用されていました。二百十日に関しては、貞享暦に採用される以前から既に伊勢神宮のくばり暦として作られた伊勢暦には記載があったと言われていますから、きっと最初は伊勢の漁師たちにとって「嵐」を意識するために必要な日として伊勢暦に採り上げられたものが、貞享暦でも採用されることになったものだと思います。どうやら、今年の二百十日は穏やかな日となりそうですが、そうはいってもいざというときに備えて、準備だけは怠りなくね。(「2021/08/30 号 (No.5448) 」の抜粋文)
nice!(0)  コメント(0) 

【萩・芽子】(はぎ) [日刊☆こよみのページ]

【萩・芽子】(はぎ)
 1.マメ科ハギ属の小低木の総称。高さ約1.5メートルに達し、叢生。
  枝を垂れるものもある。葉は複葉。夏から秋、紅紫色または白色の蝶形花
  を多数総状につけ、のち莢(さや)を結ぶ。種類が多い。観賞用、また、家畜の飼料。
  普通にはヤマハギ・ミヤギノハギを指す。秋の七草の一つ。胡枝花。
  秋の季語。万葉集15「秋の野をにほはす萩は咲けれども」
 2.襲かさねの色目。表は蘇芳(すおう)、裏は青。秋に用いる。
 3.紋所の名。ハギの葉・花・枝にかたどったもの。
   《広辞苑・第六版》

 大分秋らしくなってきましたので「萩」を取り上げてみました。秋の七草の一つで、季節を代表する花ですから。まずは萩の文字を漢和辞典で引いてみると
 【萩】
 《意味》
  {名詞}秋草の名。よもぎの一種。川岸の砂地や荒れ地に自生する。
  かわらにんじん。
 《日本語での特別な意味》
  はぎ。草の名。山野に自生する。初秋に紫紅色または白色の花をつける。
   《学研漢和大字典》

 とあります。「意味」の項にはよもぎの一種とあります。え?と思われた方もいらっしゃると思います。萩とよもぎでは共通点が見つかりません。どこをどう見てもよもぎではない。その「え?」に対する答えはわざわざ「日本語の特別な意味」と断って為されたその次の説明。初秋に紫紅色または白色の花をつけると、こちらは私たちが萩の花に抱くイメージのとおり。日本語の特別な意味と為されているのは、「萩」の文字は漢字の本家中国では日本の萩とは別の植物を指す文字だからです(日本の萩は中国では「胡枝花」と書いたそうです)。今は八月の末。萩の花盛りというにはちょっと早過ぎる気もしますけれど、そこここの人家の庭や野原に萩の花が咲く姿を見つけることが出来ようにはなりました。秋が深まるにしたがって、咲く花の数が増えて行く様子を楽しめることでしょう。萩の花には春の桜の花のような艶やかさはありませんが、花をつけた枝が朝露に濡れて弧を描くように頭を垂れる姿はなかなか美しいものです。今では秋の代表的な花とはいいながら、やや地味なイメージの萩の花ですが万葉の時代の人々には大変愛された花で、萩の花を読み込んだ歌が万葉集には142首もあり、万葉集第一の花となっています。また万葉集に詠われた「花見」の対象はこの萩(と早春の梅)だけだとか。きっと朝露に濡れた秋の野に馬を進めて萩の花を眺めたのでしょう。万葉の人々になったつもりで、馬に乗って早朝の萩の花見・・・と言うわけにはいきませんが、萩の咲く花の数がもう少し増えてきたら、早起きした朝には、散歩しながら萩の花見を楽しみたいと思っています。(なお「萩の花見」については、一年ほど前に暦のこぼれ話で取り上げたことがあります。興味のある方はそちらもあわせてお読み下さい。
萩の花見 → http://koyomi8.com/doc/mlwa/200709300.htm
nice!(0)  コメント(0) 

天地始めてさむし・2021 [日刊☆こよみのページ]

■天地始めてさむし・2021
 本日、8/28から七十二候は処暑の次候、「天地始めてさむし」の時候に入りました。「さむし」と云うのはいささか気が早すぎる気もしますが、元となった言葉を漢字て書けば

  天地始粛

 この「粛」を「さむし」読みましたが、これは「しじむ」とも読まれ、身が引きしまるというほどの意味を持つ文字で「寒い」というのとは少々違うようです。天地の暑さの衰えを感じる時節と言うほどの意味でしょうか。今朝もいつものようにベランダに出て、ベランダのタライで暮らすカメに餌を与えてきましたが、朝の空気は涼しさを通り越して少々肌寒さを感じさせるほど。「さむし」と読んでも、あながち間違いともいえないかなとおもいました。外の草むらの間から聞こえてくる虫の声も、何が違うというわけではありませんが「夏の虫」から「秋の虫」に変わったような気もします。ああ、本当にもう秋なんだなとそんなことを感じた「天地始めてさむし」の朝でした。(「2021/08/28 号 (No.5446) 」の抜粋文)

nice!(0)  コメント(0) 

【犬蓼】(いぬたで) [日刊☆こよみのページ]

【犬蓼】(いぬたで)
 タデ科の一年草。山野に普通で、高さ約30センチメートル。葉の基部の鞘状の托葉が茎を囲む。夏から秋、葉腋と茎頂に紫紅色の小花が穂をなす。アカマンマ。アカノマンマ。「犬蓼の花」は秋の季語。 《広辞苑・第六版》

 秋、稲刈りの始まる頃に田んぼの畦などに普通に見かける植物です。そろそろ夏から秋へと季節が変わるこの時期には、紫紅色の花穂を出し始めています。犬蓼といわれてもぴんとこないという方でも、別名のアカマンマ、アカノマンマで、「ああ、あれか!」と思い出されるのでは?アカマンマは「赤飯」のこと。その紫紅色の花穂のつぶつぶを赤い米粒に見立てた命名です。ままごと遊びの食卓ではめでたい赤飯の役割を果たすことの多い植物です。犬蓼は、野草とはいいながら深山で見かけることはまずありません。どんなところに暮らしているかというと、人里。田んぼの畦や、家と家の間の空き地、路傍の荒れ地などを好んでその住処としています。人間が住んでいる場所が大好きな植物なのです。犬蓼のルーツをたどると、そのご先祖は朝鮮半島~中国大陸へ行き着くそうです。昔々のその昔、犬蓼のご先祖様は人間とともに海を渡って日本にやってきた帰化植物だといわれています。人間とともにといっても、人間によって持ち込まれて来たというより、人間を利用して、海を渡ったというのが本当のところでしょう。今でもそうであるように、犬蓼のご先祖様も人里の環境に暮らすのが好きだったでしょうから、大陸から海を渡って日本にやってきた人や、作物の種子などに紛れ込んで、新天地日本にやってきたと考えられます。こんな冒険心旺盛な犬蓼ですが、付いた名前は「いぬたで」。この「犬」は役に立たないもの、価値のないものという意味を持つ言葉。犬蓼はつまり、「役に立たない蓼」という意味です。「蓼食う虫も好き好き」という言葉がありますが、これは蓼の仲間の葉っぱは辛いので、そんな辛い葉を好む虫もいるということで生まれた言葉です。「蓼食う虫も」と云っておきながら、そういう人間もこの辛味に目を付けて料理の薬味などとして使いました。この「辛い蓼」が役に立つ蓼。犬蓼は辛くないので役に立たないなんていう名前を頂戴することになったのです。犬蓼からすれば、失礼な話です。でも考えてみれば、そんな役立たずという名前を付けた人間を利用して海を渡ってきた犬蓼の方が実は人間よりも一枚上手なのかもしれません。なんといわれようと、田んぼの脇で太陽の光を浴びる犬蓼には関係ないのでしょうけれど。(「2021/08/25 号 (No.5443)」の抜粋文)
nice!(0)  コメント(0) 

「寒蝉」はヒグラシ? ツクツクボウシ? [日刊☆こよみのページ]

■「寒蝉」はヒグラシ? ツクツクボウシ?
 今週の初めでした。その日は午後一杯、外にいました。一応は「お仕事」だったのですが、結構暇があったので近くにあった大きな松の木・・・少なくとも私の年齢よりは上の樹齢の・・・の周りをうろうろして、時折吹く風で揺れる様子を眺めたり、下の枝の松葉をちぎって(ごめん)、改めて松葉の先端の堅さと鋭さに驚いたりしながら、日が沈んで薄暗くなる頃まで時を過ごしていました。夕方が近づく頃になるとその松の木の高い枝の辺りからカナカナカナという蝉の声が聞こえてきました。ヒグラシ(カナカナゼミ)の声です。更に聞いていると、ツクツクボーシ、ツクツクボーシとツクツクボウシの声も聞こえてきます。夏の終わりを感じさせる秋の蝉の声ですね。ヒグラシもツクツクボウシも、昼間もきっとせっせと鳴いていたのでしょうけれど、昼間の暑い時期には、まだ残る夏の暑さを感じさせるアブラゼミやミンミンゼミの「ジージージージリジリ」や「ミンミンミン」という夏蝉の声にかき消されて気がつかなかったのでしょうか。あるいは、私自身の脳内で「暑いときには夏の蝉」「涼しくなったら秋の蝉」と自分の感覚に合わせて蝉の鳴き声もフィルタリングされてしまってるのかもです。

◇「寒蝉」はヒグラシ?
 七十二候の立秋の次候に「寒蝉(ひぐらし)鳴く」というのがあります。今年(2021年)でいえば8/12~17の候ですから、私が松の木の周りをうろうろしていた日は、ちょうどこの候の内でしたから、私がヒグラシの声に反応したのは「かわうそ@暦」を名乗る以上は当然といえば当然でしょうか?さてさて、この「寒蝉鳴く」ですが、こよみのページでは明治時代の略本暦に取り上げられている、日本風にアレンジされている本朝七十二候を基本にしていますが、「寒蝉鳴」と言う言葉は中国から最初に伝わった七十二候がから既に存在した言葉、由緒正しい(他がそうじゃないとはいいません)言葉です。ただし、本朝七十二候での読みだけは「かんせん なく」のままではなくて寒蝉(ひぐらし)鳴くと「寒蝉」は「ひぐらし」としています。※読みに関しては、いろいろと違ったバージョンもあるので、その一例だということをご了承願います。ちなみにいつもお世話になっている広辞苑を引くと

 【寒蝉】(かんぜみ)
  秋の末に鳴く蝉。ツクツクボウシまたはヒグラシの古称か。《広辞苑・第六版より抜粋》

 と有ります。すると、私が松の木の周りで秋を感じていたヒグラシでもツクツクボウシでもどちらでもOKってことですね。短い言葉で端的にその季節を表現する七十二候の語感からすると

  寒蝉(つくつくぼうし)鳴く

 では若干、字余り感があるので、どちらでもいいなら「ひぐらし」に軍配を上げたいですが、いいかな?

◇案外早い、ヒグラシの鳴き始め
 セミの初鳴きの日や桜の開花日などは季節の変化を知る上で有用ですので、現在でも「生物気象」としてその記録が各地の気象台で記録されています。(七十二候の多くも今でいえば生物気象の指標ですね)こうした生物気象のデータをほぼリアルタイムに集めてくれている便利なサイトがありました。

 生物季節観測データベース(リアルタイム更新)http://agora.ex.nii.ac.jp/cps/weather/season/

 こちらの項目を眺めると、ミンミンゼミ、ヒグラシ、ツクツクホウシ、アブラゼミ、クマゼミ、ニイニイゼミと多くの「セミ」の初鳴きデータがあります。本日見たところでは2020年の初鳴きデータが並んでいますが、それを見ると、ヒグラシの初鳴きは8月上旬(京都 8/8,横浜 8/3)。ふむふむ。立秋が 8/7だから、そんなものか。では、「字余り感がある」と失礼なことを言ってしまったツクツクボウシはと見ると、こちらは若干遅く8月下旬(名古屋 8/26,甲府 8/19)。あら、こちらの方がより「秋を告げる蝉」らしいかな・・・。実のところ、このサイトで夏蝉の代表格、ミンミンゼミの初鳴きの時期を見ると、これがヒグラシの初鳴き時期と大差ない。ちょっと困っちゃいますが、ヒグラシの場合はあの「カナカナカナ」というどこかもの悲しいような、淋しいような鳴き声が秋を思わせるから、秋を告げる「寒蝉」にヒグラシを擬したのかな?自分の感覚から書き始めたこの話ですが、初鳴きデータだと、ヒグラシも夏の蝉のようですね(ツクツクボウシは秋の蝉でよさそうですけど)。もっとも、あのもの悲しい鳴き声で「秋」を感じてしまうのは、どうやら私だけでは無さそうで、俳句歳時記もで

  アブラゼミ・ミンミンゼミ ・・・ 夏の部
  ヒグラシ・ツクツクボウシ ・・・ 秋の部

 に入っておりました。さてさて、皆さんの「寒蝉鳴く」の寒蝉はどの蝉でしょうか。ヒグラシでもツクツクボウシでも、どっちでもいいかな?(「2021/08/21 号 (No.5439)」の抜粋文)

nice!(0)  コメント(0) 

【秋の空】 [日刊☆こよみのページ]

【秋の空】
 1.秋の晴れて高く見える空。秋天。秋の季語。
 2.(曇ったり晴れたり定めないことから) 心の変りやすいことのたとえ。「男心と秋の空」
  《広辞苑・第六版》

 二十四節気では今は立秋の期間。暦の上の秋の始まりの日です。まだ、秋の入り口ですから空を見上げても秋の空ではなくて、夏の空が広がっていて、秋の空となるのは、もう少し先のことでしょうが、コトノハでは、現実より一足早く「秋の空」という言葉を取り上げてみます。「秋の空」という言葉を聞いて思い浮かぶのは、辞書 1のような当たり前の現実の秋の空の様子よりも 2の成語としての「秋の空」です(私だけ?)。辞書 2の説明ではその成語の用例は「男心と秋の空」。え、「男心」?

◇秋の空は「男心」か「女心」か?
 私はこの成語は「女心と秋の空」だと思っていたのですが辞書の用例は「男心と秋の空」。「男心」の方が一般的なのかな?

 【女心と秋の空】
  女性の男性に対する気持ちは、変わりやすい秋の空のようだということ。
 【男心と秋の空】
  男の女に対する情愛が移ろいやすいたとえ。

(参考)「女心と秋の空」ということわざもあり、ともに異性に対する移りやすく変わりやすい気持ちをいったもので、どちらが最初かは不明。《成語林》

 うむ、「男心」も「女心」もどちらもあるようです。成語林ではどっちが先かは不明とありましたが、広辞苑で【女心と秋の空】を引くと、

 【女心と秋の空】
  男性に対する女性の心は、秋の空のように変わりやすいことのたとえ。
 古くあった「男心と秋の空」の「男」を「女」に置き換えたもの。 《広辞苑・第六版》

 とありました。ああ、決定的。「男心」が先だったのか!(出典を示してほしかったな~)広辞苑の説明を信ずれば「男心」の方が先だったようですが、結局男であろうと女であろうと人の心は変わりやすいということですね。そして秋の空(天気)もまた変わりやすいということ。気象観測技術の向上により気象予報は年々高精度化しており、昔のように天気予報はあてにならないとは言われなくなりました。複雑な秋の空の様子も今ならかなり正しく予報出来るでしょうね。とすると、時代が変わっても予測できない変化を見せるものは、「男女」それぞれの心だけとなりますかね。(「【秋の空】」の抜粋文)

nice!(0)  コメント(0)