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上巳の節供の植物 [日刊☆こよみのページ]

□上巳の節供の植物
 今日は 3/3。上巳(じょうし)の節供です。本来は、三月初め(上)の巳の日に祝われたことから上巳の節供と呼ばれ、これが本当の名前なのですが、現在は桃の節供とか雛祭りと呼ばれるのが普通で、上巳の節供と言ってもあまりぴんと来ないかもしれません。今回は、本当の名前よりみんなに認知されているであろう「桃の節供」という呼び名についてのこぼれ話です。

 上巳の節供と思われる行事については中国の詩経鄭風に既に「三月上巳に蘭を水上に採って不祥を祓除く」と書かれています。詩経の成立は紀元前9~7世紀とされているので、3000年近く昔にはそれらしい行事が行われていたことになります。もちろん日本での行事はこんな昔の話ではなくて、奈良・平安の頃中国のこの行事が伝わってきたものです。ここで問題は詩経の内容、「三月上巳に蘭を水上に採る」です。登場したのは「桃」ではなく「蘭」です。もっともこの蘭は我々の考える蘭ではなくて藤袴(ふじばかま)のことだと考えられています。藤袴と言えば秋の七草の藤袴ですが、藤袴は蘭に似た芳香を放つ植物なので、蘭の仲間と考えられたのかもしれません(花は似てもにつかないものですけれど)。芳香を放つ草は悪いもの、禍々しいものを祓う霊力があると考えられていたことから、これはそうした不祥を祓う行事だったのでしょう。また「水上に採る」とは「水辺で採る」の意味です。水辺というのは水による穢れ祓い(禊ぎ)の際にこうした芳香を放つ草をその近くで調達したと言うことでしょうか。

 端午の節供と関係の深い菖蒲もまた、芳香を放つ水辺の植物ですが、これも節供が邪を祓う行事であって、その呪術的な道具として芳香を放つ水辺の植物が使われたことを示しています。そして、身に付いた不祥は自分の身代わりの人形(古くは草人形、後には紙や布で作ったもの)に移して河に流していました。各地に残る「流し雛」の行事はこうした古い上巳の節供の姿を残したものです。古い時代の節供には、この「邪を祓う」という行為が主であったので、関係する植物も邪を祓う水辺で調達出来るものが使われたようです。ですから、上巳の節供の始まりの頃まで遡ると今私たちが普通に「桃の節供」と呼ぶような、桃の花との直接の結びつきはなかったようです。桃の花と上巳の節供が結びつくようになったのは何時かということはよく解らないのですが、どうやらこうした「邪を祓う行事」の意味が薄らぎ、お雛様が河に流されるような簡易なものから、家に飾られる豪華な雛人形に変わってから以降と考えられます。だとすると室町時代の終わり頃でしょうか。お雛様を家に飾り、様々な装飾を加える中で、香りによって邪を祓うための呪術的な道具としての「草」から、装飾にも用いられる「花」へと変貌したのでしょうね(芳香を放つという点では通じます)。

 桃の花自体は、前出の詩経の時代から佳い娘になぞらえられる花で有りましたし、鬼や邪気を祓う霊力のある植物であるとも考えられていた(鬼退治と言えば、桃太郎。これも「桃」による鬼追いの話です)ので、女児の節供にはぴったりの花として上巳の節供と結びついたのではないでしょう。我々にとっては上巳の節供と言えば桃の節供のことですが、最初から桃の節供として生まれたわけでは無さそうです。「伝統行事」と一口に言いますが、こうしてよく見てゆくと、始めから今のような姿で生まれたわけではなくて、それぞれの時代時代に様々なことが付け足され、あるいは忘れられながら姿を変えて今の伝統行事になって来たことが判ります。伝統行事は、無闇に「昔の形」にこだわるより、それぞれの形に込められた先人の思いを、時代に合わせて継承してつくって行くものだと思いますが、いかがでしょうか?(「2019/03/03 号 (No.4537)」の抜粋文)

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