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【霞】(かすみ) [日刊☆こよみのページ]

【霞】(かすみ)
  微細な水滴が空中に浮遊するため、空がぼんやりして遠方がはっきりと見えない現象。
  古くは、春秋ともに霞とも霧ともいったが、後世は、春のを霞、秋のを霧という。
  春の季語。《広辞苑・第七版より抜粋》

 霞立つ季節と言えば春。空中を漂う水滴という点では、霞も霧も同じものですが言葉としての霞と霧に感じる随分と大きな差があります。私にとって、霧を通して見える風景と言えば、針葉樹の木立であったり葉を落とした木々の姿です。ところがこの「霧」を「霞」と言い換えるだけで、その先に浮かぶ景色がガラリと変わります。「霞」の先に浮かぶ風景と言えばそれは桜の花であり菜の花でであり、田植えを待つ田んぼの眺めです。私だけがそう感じるのかと言えば、どうやらそうではないようで、歳時記を見ると霞は春の言葉、霧は秋の言葉と使い分けられています。どうやら多くの人にとって、霞と霧とは別物のようで、霞には霧にはないほんのりと暖かく柔らかな肌触りがある言葉のようです。霞には霧にはない柔らかな肌触りがあると書きましたが、そういえば「霞たなびく」とはいいますが「霧たなびく」という表現は、使われる例が少ないように感じます。たなびくという柔らかな語感の言葉に結びつくのは霧ではなく霞のようですね(個人の感想・・・かな?)。歳時記によっては、秋の霧、春の霞という分類の他に、昼は「かすみ」、夜は「おぼろ」と呼ぶと使い分けるものも有ります。

 本日(2024/2/24)から、七十二候の『霞始めてたなびく』の時節に入ります。霞たなびく夕べに西の山に日が沈めば、東の空にはおぼろな月が昇る、そんな季節が始まりました。

                          (「2024/02/24 号 (No.6356) 」の抜粋文)
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雨水の頃(2024) [日刊☆こよみのページ]

■雨水の頃(2024)
 『今日(2/19)は雨水』、と昨日、格好良く書けばよかったのですが、うっかりしていて一日遅れてしまいました。そういうわけで遅れましたが気を取り直して昨日(2/19)は雨水の節入り日でした(・・・)。

 雨水は二十四節気の正月中。「うすい」と読みます。これを「あまみず」と読んでしまうと意味が違ってしまいますのでくれぐれもお間違えのないように(このメールマガジンの読者の皆さんに限っては、そんな心配は杞憂でしょうけれど)。旧暦では雨水(の節入り日)を含む暦月をその年の初めの月、正月としていました。正月といえば二十四節気には正月節というものもあります。この正月節は立春。このためでしょうか、「旧暦の正月は立春に始まる・・・」と言った話をよく聞きますが、これは間違い。旧暦の暦月の名前を決めるのは節気の方ではなくて中気の方。今回の場合で言えば「雨水」の方です。二十四節気の節入りの日時の計算には一年を時間で二十四等分する恒気(こうき)あるいは平気(へいき)と呼ばれる方式と、太陽の通り道である黄道(の黄経)を角度で二十四等分し、太陽がその等分した点を通過する瞬間とする定気(ていき)あるいは実気(じっき)と呼ばれる方式の二種類が有りますが、現在の二十四節気(国立天文台が計算して暦要項で発表しているもの)の計算方式は定気法です。定気法は黄経を二十四等分する方式と書きましたが、雨水はこの方式で言えば太陽の黄経が 330度となった瞬間を含む日が雨水の節入り日となります。

◇雨水の頃
 二十四節気の中には、説明されないと意味の分からないものも有りますが、その点では雨水は分かりやすい。空から降るものが雪から雨に変わる時期だと言うことです。今週は全国的にも2月とは思えないほど暖かい日が続いているようなので、ほとんどの地方で「雨水」の言葉通り、空から降るものが雪から雨に変わったのではないでしょうか(私の住んでいる辺りでは雨続きでした)。二十四節気が生まれたのは、古代中国殷の時代。殷の都商丘のあった中国の黄河中流域は、大陸性の気候で、年平均気温は日本の京都や東京都と比べて5~6℃も低いのですが、寒い場所でもこの頃になれば最初の雨を見ることが出来たのでしょう。寒さが厳しく、冬が辛い場所であればあるほど暖かな春の訪れが待ち望まれたことでしょうから、春の訪れを感じさせる雪が雨に変わるこの「雨水」には特別な意味を感じたのかもしれません。そういえば、昨日のこのメールマガジンでも書きましたが、雨水の少し前から私の家の近所では蛙が鳴き出しました。蛙たちも雨水を感じ、春がやってきたことを感じているみたいです。

                          (「2024/02/20 号 (No.6352) 」の抜粋文)
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【春泥】(しゅんでい) [日刊☆こよみのページ]

【春泥】(しゅんでい)
 春の、雪解け・霜解けなどによるぬかるみ。春の季語。 《広辞苑・第六版》

 2月も下旬となり、寒いながらも春の兆しを感じる頃となりました。本日、2/19(2024)は二十四節気「雨水(うすい)」の節入り日。七十二候では「土脉潤い起こる(つちのしょううるおいおこる)」の始まりの日です。

 ※七十二候の「土脉(つちのしょう)」はメールの環境によっては文字化けしてしまうことがあるので、当メールマガジンでは「土が潤い起る」と紹介しています。

 二十四節気の雨水は、空から降るものが雪から雨に変わる頃といった意味ですし、七十二候も凍りついた大地が解け出し、湿った状態となることを表す言葉となっています。「湿った状態」と書きましたが、泥濘む(ぬかるむ)頃といった方が現実をよく表す気がしますが。本日採り上げた「春泥」は、この大地が泥濘んだ状態を表した言葉です。東北の田舎で生まれ育った私にとって春泥は毎年春のなじみのものでした。冬の間、白い雪に覆われていた大地のあちらこちらに黒い土がその姿を現し凍っていた道(もちろん未舗装)の表面は、沢山の水分を含んだ泥によって覆われるようになります。春を感じさせる日差しの暖かさは嬉しいものでしたが、この泥のおかげで春先の登下校は雨でもないのに長靴履きを余儀なくされたものです。長靴を履いての登下校は、長靴が重い上に泥に足をとられて歩きにくいこと甚だしいのでした。その上、苦労して歩いて家に着いてみれば、長靴で跳ね上げた泥がズボンの背面にたっぷりと付着して、洗濯物の量を増やすことに貢献してくれました。なかなか厄介な春の泥でした。あんな厄介なものでしたが、いい年になって小さな頃を振り返ると、なぜかあの泥に難渋した通学路の風景をよく思い出します。あの春の泥は厄介者ではありましたが、厄介者なりに春の訪れを感じさせてくれた風物詩だったのだなと今になれば思うことが出来ます。過ぎ去って、思い出になった今だからそう思えるようになったというのが正しいかもしれませんが。年経て、昔の厄介者が懐かしく思えるようになる人は、どうやら私以外にも大勢いらっしゃるようで、あの厄介者は「春泥」なんていう、なんかきれいな響きの言葉として、今ではちゃっかりと「春の季語」の座を占めております。嫌われても粘り強く頑張れば、いいこともあると言う教訓かな?

                          (「2024/02/19 号 (No.6351) 」の抜粋文)
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