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【木の芽雨】(きのめあめ) [日刊☆こよみのページ]

【木の芽雨】(きのめあめ)
 春、木の芽どきに降る雨で、その成長を助ける雨。徳島県では、「木の芽起し」「木の芽萌やし」、長崎県北松浦郡・鹿児島県肝属郡では「木の芽流し」などという。《雨の名前(小学館)から抜粋》

 二月の末の頃から三月の始めの頃になると、寒の戻りがあるとはいえ、季節は春と感じる日が増えてきます。そんな時節に降る雨が木の芽雨です。冬の間、身を固くして寒さに堪えていた木の芽の芽吹きをうながす雨です。東北の田舎育ちでしたので、遊び場は田んぼのあぜ道や河原や里山。木の芽雨の降る頃は、どの遊び場にいても「土の匂い」を感じました。土の匂いは、温かくてどこか湿った匂い。香りとも臭気とも違う、匂いではない匂い。巧く云えませんが、匂いと云うより気配といった類のものだったように思います。あの土の匂いの中に感じた「温かくてどこか湿った」ものは、この時期に降る木の芽雨のもたらした温かい湿りだったのでしょう。私が土の匂いを感じる頃になると、田んぼの畦には蕗の薹が顔を出し、河原では葦の若芽が姿を見せ、里山では蕨(わらび)や薇(ぜんまい)が頭をもたげ始めました。昨日の朝は、久々に傘のご厄介になりました。雨は降っていましたが、寒さは感じません。もう冷たい冬の雨ではありませんでした。舗装された道路には、春の雨で目をさましそうな草の姿はありませんでしたが、遠くに霞んで見えていた山の中では、春の雨に打たれて目をさました蕨や薇が、きっとあったことでしょう。

■埋め草の記 (「編集後記」のようなもの)
 昨日は雨。春の初めの雨ということで、本日はコトノハで「木の芽雨」という春らしい雨を表す言葉を取り上げました。しかし・・・

 昨日の雨は冷たく、時にはたたきつけるような強い雨。傘を差していても役に立たなくなるくらいの雨でした。おまけに風まで強くて、こんな中でか弱い折りたたみ傘を使っていたものですから、ふいに向きを変えた風のために、傘が壊れてしまいました。幸い、比較的近くにコンビニエンスストアがあったので、ここに駆け込み、雨の強い一時をやり過ごすとともに新しい傘(しっかりした、折り畳み式でない傘)を買いました。「木の芽雨だね」なんて言える、優しい雨だったらよかったのですがね。ああ、寒かった。

                          (「2024/03/13 号 (No.6374) 」の抜粋文)
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【桃】(もも) [日刊☆こよみのページ]

【桃】(もも)
 1.バラ科の落葉小高木。中国原産。葉は披針形。4月頃、淡紅または白色の五弁花を開く。果実は大      形球形で美味。古くから日本に栽培、邪気を払う力があるとされた。白桃・水蜜桃のほかに、皮に毛のないツバイモモ(アブラモモ)、果肉が黄色の黄桃(おうとう)、扁平な蟠桃(はんとう)、観賞用の花モモなど品種が多い。仁・葉は薬用。「桃の花」は春の季語、「桃の実」は秋の季語。万葉集19「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ」
 2.木綿きわたの実。
 3.襲(かさね)の色目。表は紅、裏は紅梅。また、表は白、裏は紅。一説に、表は薄紅、中陪なかべは白、裏は萌葱もえぎ。3月頃用いる。
 4.紋所の名。桃の実や花をかたどったもの。 《広辞苑・第六版》

 七十二候の八番目、啓蟄の次候は「桃始めて咲く」。時期としては、3/10頃です。ということで、今年は今日が「桃始めて咲く」の候の始まりの日です。桃の花は、梅、桜と並び春を代表する花です。私の中では梅が咲いて桜が咲いて、日差しも和らいだ頃に咲くのが桃の花というイメージがあります。そのイメージからすると桃の花の咲くのはもう少し先ということになるのですが、「始めて咲く」ということですから、ぼんやりしている私が気づかないどこかで、咲き始めた花があるのでしょう。中国では桃には邪気を祓う霊力のあると信じられていました。上巳の節供に桃の花を飾り桃酒を飲むのもそうした桃の霊力によって、邪気を遠ざけるためなのです。

 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉平坂(よもつひらさか)で追ってくる黄泉の国の鬼女を追い払うために桃の実を投げつけたというのも、桃には霊力があると考えていた証なのでしょう。桃の花が何処かで咲き始めれば、きっと「邪」と冬の寒さを遠ざけて、幸いと春の温もりを呼び寄せてくれることでしょう。頑張れ、桃の花!

                          (「2024/03/10 号 (No.6371) 」の抜粋文)
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【猫柳】(ねこやなぎ) [日刊☆こよみのページ]

【猫柳】(ねこやなぎ)
 カワヤナギの季節的な愛称。花穂の銀毛が猫を思わせるのでいう。春の季語。《広辞苑・第七版》

 いつもお世話になっている広辞苑には「カワヤナギの季節的な愛称」とありましたが、手持ちの何冊かの植物図鑑で調べてみると、ネコヤナギはネコヤナギのようです。ある図鑑ではわざわざ、

  「カワヤナギと呼ばれることもあるが、カワヤナギという別種があるのでまぎらわしい」

 とまで書いていますから、違う種類のようです。植物の分類では猫柳はネコヤナギか、カワヤナギの異称かという問題はあるでしょうが、私からすれば雪解けの頃、川べりで見かける銀白色の綿毛におおわれた花(花序)をつけたヤナギはみんな猫柳です。猫柳の名前はやはりあの銀白色の綿毛をまとった花が猫と見立てたことからついたものでしょう。ネコヤナギの異称の一つにはエノコロヤナギというものがあるそうですが、こちらはこの綿毛の花を犬と見立てたものです。

  エノコロ = 犬子、犬児、狗児

 どちらもあの花がふさふさの和毛(にこげ)を連想させることから付いた名前なのですね。その和毛が猫か、犬かの違いだけです。ただ、この和毛の主が狼や熊や狸や狐ではなく、古くから人間と暮らしていた猫や犬とされた辺りは、この猫柳がそれだけ身近に感じられる植物だったことをうかがわせます。まだ雪がそこここに残る川岸から、銀白色の花をいっぱいつけた枝を水面に差し掛けるように伸ばす猫柳を目にすると、春が来たなとしみじみと感じますよね。

                           (「2024/03/08 号 (No.6369)」の抜粋文)
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【土筆】(つくし) [日刊☆こよみのページ]

【土筆】(つくし)
 スギナの地下茎から早春に生ずる胞子茎。筆の形をし、食用とする。つくしんぼ。筆の花。古称、つくづくし。春の季語。《広辞苑・第六版》

 春になると、地面から顔を出すのが今回採り上げた土筆。この土筆が一斉に顔を出した様子を表す言葉に「土筆野(つくしの)」といいます。まだ小学校に入学したばかりの頃、学校の帰り道に沢山の土筆の生える場所を見つけました。大きめの用水路か何かを撤去した後らしく、剥き出しの地面が広がっている場所で、雪解けの水を吸って柔らかくなった地面から沢山の土筆が顔を出していました。私の土筆野でした。この場所で沢山顔を出した土筆を摘み、摘むのに飽きると大怪獣になった気分で、土筆野の土筆を踏みつぶして歩いたり(土筆さん、許してください)して遊び、散々に道草を喰いました。この頃に沢山の道草を喰った結果、今の私が出来上がりました(・・・)。今住んでいる場所は周囲に田んぼが広がるような田舎で、田んぼのあぜ道には土筆の生える場所はいくつかありますが、土筆野と言うほど沢山生える場所はなく、半世紀前の昔に戻って大怪獣になることは出来ません。こんな田舎でも土筆が生える土地が減ってきているようです。そのうちに土筆野どころか、土筆さえ春の野に見つけることが出来なくなってしまうかもしれないな?そんな未来は来て欲しくないですけどね。

                          (「2024/03/06 号 (No.6367) 」の抜粋文)
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虫たちの冬休みは終わり? [日刊☆こよみのページ]

□虫たちの冬休みは終わり?
 今日(2024/3/5)は啓蟄の節入り日。七十二候では「巣籠もりの虫戸を開く」の始めの日です。この七十二候は「蟄虫戸を啓く」という中国から伝わった時の言葉を日本風に書き直したもので中身は同じ、土の中で冬を過ごしていた虫たちが活動始める時期という意味です。蟄虫戸を啓くといえば、七十二候にはこれと対となる言葉があります。

  蟄虫戸を閉ざす(虫かくれて戸をふさぐ)

 ()の中の言葉は、こちらも日本風に書き直したものです。では今日、戸を開いて出てきた虫たちが戸を閉ざして眠りについた「蟄虫戸を閉ざす」はいつかというと、昨年の9/28です。虫たちは 159日間も引きこもって冬休みだったということになります。1年を365日とすれば、159日を差し引くと虫たちの活動期間は 206日間。206日活動して159日休み。羨ましい・・・。でも考えてみると、この休みの日数はほぼ週休3日の休みの日数に相当しますから、週休二日に祝日、それと盆正月の休みなどを考えると、それ程多くもないのかもしれませんね。活動期間中の虫たちには土日の休みはないでしょうから。さて、七十二候の「蟄虫戸を啓く」という言葉も「蟄虫戸を閉ざす」という言葉も、元はといえば生まれたのは中国の内陸部で、日本よりも大分平均気温の低い場所です。どれくらい違うかを平均気温で比べてみると

   9/28頃 太原市:13~14℃  東京:21~ 22℃
   3/06頃 太原市: 1~ 2℃  東京: 7~ 8℃

 6度~8度も違います。こんなに寒いなら、長い冬休みが欲しいというのも解る気がします。中国内陸部に比べたら随分暖かい日本で暮らす虫たちはもっと長いこと働いているのでしょう。もしかしたら日本の虫たちは我々にも完全週休二日相当の冬休みを!なんて、週休二日制が普及してきている人間達をうらやんでいるかもしれませんね。さて、本日は「巣籠もりの虫戸を開く」の日。既に働き始めているでしょう日本の虫たちの姿を何処かで目にすることが出来るのではないでしょうか。

                           (「2024/03/05 号 (No.6366)」の抜粋文)
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【霞】(かすみ) [日刊☆こよみのページ]

【霞】(かすみ)
  微細な水滴が空中に浮遊するため、空がぼんやりして遠方がはっきりと見えない現象。
  古くは、春秋ともに霞とも霧ともいったが、後世は、春のを霞、秋のを霧という。
  春の季語。《広辞苑・第七版より抜粋》

 霞立つ季節と言えば春。空中を漂う水滴という点では、霞も霧も同じものですが言葉としての霞と霧に感じる随分と大きな差があります。私にとって、霧を通して見える風景と言えば、針葉樹の木立であったり葉を落とした木々の姿です。ところがこの「霧」を「霞」と言い換えるだけで、その先に浮かぶ景色がガラリと変わります。「霞」の先に浮かぶ風景と言えばそれは桜の花であり菜の花でであり、田植えを待つ田んぼの眺めです。私だけがそう感じるのかと言えば、どうやらそうではないようで、歳時記を見ると霞は春の言葉、霧は秋の言葉と使い分けられています。どうやら多くの人にとって、霞と霧とは別物のようで、霞には霧にはないほんのりと暖かく柔らかな肌触りがある言葉のようです。霞には霧にはない柔らかな肌触りがあると書きましたが、そういえば「霞たなびく」とはいいますが「霧たなびく」という表現は、使われる例が少ないように感じます。たなびくという柔らかな語感の言葉に結びつくのは霧ではなく霞のようですね(個人の感想・・・かな?)。歳時記によっては、秋の霧、春の霞という分類の他に、昼は「かすみ」、夜は「おぼろ」と呼ぶと使い分けるものも有ります。

 本日(2024/2/24)から、七十二候の『霞始めてたなびく』の時節に入ります。霞たなびく夕べに西の山に日が沈めば、東の空にはおぼろな月が昇る、そんな季節が始まりました。

                          (「2024/02/24 号 (No.6356) 」の抜粋文)
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雨水の頃(2024) [日刊☆こよみのページ]

■雨水の頃(2024)
 『今日(2/19)は雨水』、と昨日、格好良く書けばよかったのですが、うっかりしていて一日遅れてしまいました。そういうわけで遅れましたが気を取り直して昨日(2/19)は雨水の節入り日でした(・・・)。

 雨水は二十四節気の正月中。「うすい」と読みます。これを「あまみず」と読んでしまうと意味が違ってしまいますのでくれぐれもお間違えのないように(このメールマガジンの読者の皆さんに限っては、そんな心配は杞憂でしょうけれど)。旧暦では雨水(の節入り日)を含む暦月をその年の初めの月、正月としていました。正月といえば二十四節気には正月節というものもあります。この正月節は立春。このためでしょうか、「旧暦の正月は立春に始まる・・・」と言った話をよく聞きますが、これは間違い。旧暦の暦月の名前を決めるのは節気の方ではなくて中気の方。今回の場合で言えば「雨水」の方です。二十四節気の節入りの日時の計算には一年を時間で二十四等分する恒気(こうき)あるいは平気(へいき)と呼ばれる方式と、太陽の通り道である黄道(の黄経)を角度で二十四等分し、太陽がその等分した点を通過する瞬間とする定気(ていき)あるいは実気(じっき)と呼ばれる方式の二種類が有りますが、現在の二十四節気(国立天文台が計算して暦要項で発表しているもの)の計算方式は定気法です。定気法は黄経を二十四等分する方式と書きましたが、雨水はこの方式で言えば太陽の黄経が 330度となった瞬間を含む日が雨水の節入り日となります。

◇雨水の頃
 二十四節気の中には、説明されないと意味の分からないものも有りますが、その点では雨水は分かりやすい。空から降るものが雪から雨に変わる時期だと言うことです。今週は全国的にも2月とは思えないほど暖かい日が続いているようなので、ほとんどの地方で「雨水」の言葉通り、空から降るものが雪から雨に変わったのではないでしょうか(私の住んでいる辺りでは雨続きでした)。二十四節気が生まれたのは、古代中国殷の時代。殷の都商丘のあった中国の黄河中流域は、大陸性の気候で、年平均気温は日本の京都や東京都と比べて5~6℃も低いのですが、寒い場所でもこの頃になれば最初の雨を見ることが出来たのでしょう。寒さが厳しく、冬が辛い場所であればあるほど暖かな春の訪れが待ち望まれたことでしょうから、春の訪れを感じさせる雪が雨に変わるこの「雨水」には特別な意味を感じたのかもしれません。そういえば、昨日のこのメールマガジンでも書きましたが、雨水の少し前から私の家の近所では蛙が鳴き出しました。蛙たちも雨水を感じ、春がやってきたことを感じているみたいです。

                          (「2024/02/20 号 (No.6352) 」の抜粋文)
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【春泥】(しゅんでい) [日刊☆こよみのページ]

【春泥】(しゅんでい)
 春の、雪解け・霜解けなどによるぬかるみ。春の季語。 《広辞苑・第六版》

 2月も下旬となり、寒いながらも春の兆しを感じる頃となりました。本日、2/19(2024)は二十四節気「雨水(うすい)」の節入り日。七十二候では「土脉潤い起こる(つちのしょううるおいおこる)」の始まりの日です。

 ※七十二候の「土脉(つちのしょう)」はメールの環境によっては文字化けしてしまうことがあるので、当メールマガジンでは「土が潤い起る」と紹介しています。

 二十四節気の雨水は、空から降るものが雪から雨に変わる頃といった意味ですし、七十二候も凍りついた大地が解け出し、湿った状態となることを表す言葉となっています。「湿った状態」と書きましたが、泥濘む(ぬかるむ)頃といった方が現実をよく表す気がしますが。本日採り上げた「春泥」は、この大地が泥濘んだ状態を表した言葉です。東北の田舎で生まれ育った私にとって春泥は毎年春のなじみのものでした。冬の間、白い雪に覆われていた大地のあちらこちらに黒い土がその姿を現し凍っていた道(もちろん未舗装)の表面は、沢山の水分を含んだ泥によって覆われるようになります。春を感じさせる日差しの暖かさは嬉しいものでしたが、この泥のおかげで春先の登下校は雨でもないのに長靴履きを余儀なくされたものです。長靴を履いての登下校は、長靴が重い上に泥に足をとられて歩きにくいこと甚だしいのでした。その上、苦労して歩いて家に着いてみれば、長靴で跳ね上げた泥がズボンの背面にたっぷりと付着して、洗濯物の量を増やすことに貢献してくれました。なかなか厄介な春の泥でした。あんな厄介なものでしたが、いい年になって小さな頃を振り返ると、なぜかあの泥に難渋した通学路の風景をよく思い出します。あの春の泥は厄介者ではありましたが、厄介者なりに春の訪れを感じさせてくれた風物詩だったのだなと今になれば思うことが出来ます。過ぎ去って、思い出になった今だからそう思えるようになったというのが正しいかもしれませんが。年経て、昔の厄介者が懐かしく思えるようになる人は、どうやら私以外にも大勢いらっしゃるようで、あの厄介者は「春泥」なんていう、なんかきれいな響きの言葉として、今ではちゃっかりと「春の季語」の座を占めております。嫌われても粘り強く頑張れば、いいこともあると言う教訓かな?

                          (「2024/02/19 号 (No.6351) 」の抜粋文)
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【蕗の薹】(ふきのとう) [日刊☆こよみのページ]

【蕗の薹】(ふきのとう)
 (「蕗の塔」からか)春の初めに蕗の根茎から生え出る花茎。ふきのじい。ふきのしゅうとめ。春の季語。文明本節用集「款冬、フキノタウ」 《広辞苑・第六版》

 七十二候、大寒の初候は「蕗のとう花咲く」ということで、本日は蕗の薹について採り上げてみることにしました。蕗は山野の路傍に普通に生えている山菜。どちらかと言えば湿り気のある場所が好きで、蕗が沢山在る場所の傍には水の流れがあることが多いものです。蕗の古名は「山生吹(ヤマフフキ)」。山から命が吹き出すように生まれるということから付いた名前と考えられます。大地から芽吹く蕗の姿をよく現した名前です。その古名から「ヤマ」と「フ」が外れて現在の「フキ」となったようです。蕗は早春に葉より先に薄緑の苞に包まれた卵形の蕾を地面から出します。この蕾が、時にはまだ地面を覆う残雪を押しのけるようにして、その姿を現したものが蕗の薹です。蕗の薹は、やがてこれを覆っていた苞を破って花穂を現します。花穂が顔を覗かせる前の苞に覆われた状態の蕗の薹が、早春の山菜として親しまれるフキノトウです。蕗の薹が山菜として親しまれる理由は、その苦みのある独特の味ばかりではなく、蕗という名が「富貴」に通ずる嘉祥植物として、蕗の薹の芽吹く時期に訪れる旧正月の祝いの膳に欠かせないものだったということの名残もあるのではないでしょうか。ちなみに、山菜として食べられてしまう蕗の薹からすれば危険な時期を乗り越えて無事に花を咲かせた蕗の薹の花には、白と黄色の花色があることはご存じ? 実は、蕗の薹は雌雄異株で、雄花の花色は黄色、そして雌花の方は白色です。子供の頃は「種類が違うの?」と思ったりしていましたが、花色の違いは雄花と雌花の違いでした。もし、早春の珍味として食卓に上ることを免れ、花を咲かせている蕗の薹を見かけることがあれば、雄花か雌花かどちらだろうと、のぞき込んでみてくださいね。もっとも、まだしばらくは、蕗の薹たちにとっては危険な季節が続きますけどね。なお、蕗の葉っぱの方は、蕗の花の季節が終わる頃に、ようやくその姿を現します。目にする時期も姿も大分違うので、蕗と蕗の薹は別物と思っている方もいらっしゃるようですが、同じ植物ですよ(念のため)。

                          (「2024/01/23 号 (No.6324) 」の抜粋文)
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【葉守の神】(はもりの かみ) [日刊☆こよみのページ]


【葉守の神】(はもりの かみ)
 樹木を守護するという神。柏の木に宿るという。枕草子40「柏木、いとをかし、葉守の神のいますらむもかしこし」 《広辞苑・第六版》

 柏は柏餅を巻いているあの葉っぱの木です。子供の頃住んでいた家には小さな畑がありました。その畑の隅にこれまた小さな一本の柏の木が植えられていました。柏の木は大きな葉っぱが特徴ですが、あの大きな葉っぱも冬になるとすっかり枯れてしまいます。不思議なことに柏の枯れ葉は他の木の枯れ葉のように、枯れても木から離れようとはしません。枯れたまま枝に残り、翌春に新しい葉の芽が生まれるまで枝に留まります。昔、家の畑の隅に植えられていた小さな柏の木も、小さいながら冬は枯れた葉を身にまとって冬の風に揺れていました。柏の木に残る枯れ葉は、柏の木に宿った神に守られて残っているのか、はたまた、枯れてもなお木を守る枯れ葉そのものが神なのか。もし何処かでカサカサと枯れ葉の擦れ合う音を耳にすることがあれば、そこに木を守る葉守の神がいらっしゃるのかも知れません。葉守の神に守られて木々は厳しい季節を乗り切って行きます。

                          (「2023/12/04 号 (No.6274) 」の抜粋文)
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