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【葉守の神】(はもりの かみ) [日刊☆こよみのページ]


【葉守の神】(はもりの かみ)
 樹木を守護するという神。柏の木に宿るという。枕草子40「柏木、いとをかし、葉守の神のいますらむもかしこし」 《広辞苑・第六版》

 柏は柏餅を巻いているあの葉っぱの木です。子供の頃住んでいた家には小さな畑がありました。その畑の隅にこれまた小さな一本の柏の木が植えられていました。柏の木は大きな葉っぱが特徴ですが、あの大きな葉っぱも冬になるとすっかり枯れてしまいます。不思議なことに柏の枯れ葉は他の木の枯れ葉のように、枯れても木から離れようとはしません。枯れたまま枝に残り、翌春に新しい葉の芽が生まれるまで枝に留まります。昔、家の畑の隅に植えられていた小さな柏の木も、小さいながら冬は枯れた葉を身にまとって冬の風に揺れていました。柏の木に残る枯れ葉は、柏の木に宿った神に守られて残っているのか、はたまた、枯れてもなお木を守る枯れ葉そのものが神なのか。もし何処かでカサカサと枯れ葉の擦れ合う音を耳にすることがあれば、そこに木を守る葉守の神がいらっしゃるのかも知れません。葉守の神に守られて木々は厳しい季節を乗り切って行きます。

                          (「2023/12/04 号 (No.6274) 」の抜粋文)
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【木枯し・凩】(こがらし) [日刊☆こよみのページ]

【木枯し・凩】(こがらし)
 (木を吹き枯らす意)
 1.秋から初冬にかけて吹く、強く冷たい風。
  気象用語では風速毎秒8メートル以上の北よりの風。冬の季語。
  源氏物語(帚木)「木枯らしに吹きあはすめる笛の音を」
 2.(女房詞)(一説に、その音からの称かとも)すりこぎ。
   《広辞苑・第七版》

 「凩」は風の略形と木とをあわせたもので日本製の漢字です。なかなかいい組み合わせで、分かりやすい文字です。「こがらし」と言う言葉自体、冬の初めのころに木に残った枯れ葉を吹き払う冷たい強風を表すにはピッタリの言葉。この言葉を耳にするだけで思わずコートの襟元を引き寄せてしまいそうです。気象の世界では、十月半ばから十一月半ばにかけて西高東低の冬型の気圧配置となって最初に吹く風速8m/s以上の西北西から北向きの風を「木枯らし一号」と呼ぶのだそうです。今年(2023年)には11/11に大阪で、11/13には東京で木枯らし一号が吹いたというニュースを耳にしました。木枯らし一号が吹いてもまだこの初冬の時期の冬型の気圧配置は長続きしないことが多くて、一日二日するとまた暖かい日がやって来ます。こんな暖かい日は小春日と呼ばれます。木枯らしの日と小春日が相互に繰り返されることに始まり、徐々に木枯らしの吹く日の比率が増えて、木枯らしが吹き払う木の葉が尽きてしまう頃にはいよいよ冬も本番をむかえているはずです。

                           (「2023/11/27 号 (No.6267)」の抜粋文)
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時雨虹(しぐれ にじ) [日刊☆こよみのページ]

□時雨虹(しぐれ にじ)
 北海道や東北地方からは雪の便りが聞こえてくる季節となりました。これからは、その知らせの場所が少しずつ南下してきて、日本列島全部が冬という季節に覆われることになるのでしょう。寒さは苦手な私ですが、寒さも季節の変化の一つ。寒さとも何とか折り合いつけて、季節の変化を楽しみたいと思います。さて、寒くなり雨が雪に変わってくる頃になると姿を消してしまうものがあります。本日は冬には姿を消してしまうものの一つ、虹についての話題を採り上げてみたいと思います。

◇七十二候「虹蔵不見」
 今日の暦にある七十二候の言葉を見ると「虹隠れて見えず」とあります。初冬の虹という話題として、まずはこの七十二候の言葉から始めてみることにいたします。「虹隠れて見えず」は中国から伝来したままの書き方では「虹蔵不見」。これを「虹蔵(かくれ)て見えず」と読みます。このままではやや読みにくいのでこよみのページではこれを「虹隠れて見えず」と書き表しています。さて、初冬のこの時期になぜ「虹隠れて見えず」とあるかと云うことですがそれは虹と雨は切っても切れない関係にあるからです。この記事の冒頭でも書いたとおり冬になると雨は雪へと姿を変えてしまいますから、虹もその姿を隠してしまうと云うことです。虹は、「虫偏」の文字であることからもわかるとおり、古代中国では生き物の一つ、竜の一種と考えられました。竜は水を操る神獣と考えられていましたから、その一種である虹にも水を操る力があると考えられました。虹の力を及ぼす水、それは雨。現代の私たちは、冬になって雨が降らなくなると虹が出ないと考えますが、古代の人たちは、冬は雨を呼ぶ竜、虹が姿を隠す時期だから雨が降らないと現代の私たちとは違った虹と雨の関係の捉え方をしていたようです。

◇時雨虹(しぐれ にじ)
 冬は雨が降らない季節とは書きましたが、初冬の日本ではまだまだ雨が降ります。この辺は七十二候や二十四節気が発明された中国の内陸部より日本の気温が高いという気象条件の違いのためです。初冬の日本に降る雨というと、思い出される言葉に「時雨(しぐれ)」があります。時雨は短時間にサッと降って雨が上がり、雨が上がったと思ったらまたサッと降り出す、そんな雨のです。虹は、雨がなければその姿を現しませんが、かといって雨だけがあれば姿を現すというものではありません。虹が姿を現すためには雨と太陽の光が必要だからです。雨と太陽の光という組み合わせが必要な虹にとっては、この降っては晴れ、晴れては降る時雨は、雨も太陽の光の両方が揃う姿を現すのに絶好の天気です。時雨雲が雨を降らせ、やがて頭上を去って代わりに青空が顔を覗かせると、頭上を去っていった雨に青空から覗いた太陽の光が当たって虹が生まれることがよくあります。こうした虹が「時雨虹」です。虹は太陽の光が斜めから差し込むほど、空の高いところまで広がった大きな姿となります。初冬の太陽は、夏と違って日中でも地平線からあまり高いところに昇りませんから、この時期に現れる時雨虹は大概がとても大きく見事な虹となります。実は、今年の「虹隠れて見えず」の期間に入る前日に、冬の見事な虹を見ることが出来ました。正午を少し過ぎたばかりの頃にその虹は見えましたので虹の高さは低めでしたが、その分くっきりとした虹でした。くっきりとした虹の外側には、かすかにでしたが、もう一つの虹も見えました。つがいの虹でした。冬の最中には姿を消してしまう虹ですが、初冬の時雨が止んで太陽が姿を覗かせたら、太陽の反対の方角に隠れてしまう前の虹の姿を探してみてください。

                          (「2023/11/26 号 (No.6266) 」の抜粋文)
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【団栗の背競べ】(どんぐりのせいくらべ) [日刊☆こよみのページ]

【団栗の背競べ】(どんぐりのせいくらべ)
 どれもこれも似たようなもので、大したものではないこと。また、大きなちがいはないこと。
   《広辞苑・第七版》

 「ドングリの木」という種類の木があると思っていました。その「ドングリ」という種類の木に生る実がドングリの実だと思っていたのです。「ドングリの木」と思っていた木がクヌギと呼ばれる木だと知ったときにもドングリはクヌギの異称くらいに思っていました。でもクヌギ以外の木、例えばカシやナラの木に生る実も、「ドングリ」だというのを知って、驚いたことを覚えています。私からすると、形は似ていても小振りのカシの木の実などはドングリの仲間には入らないと思っていたからです。そして知ったのが、ドングリ(団栗)はクヌギやカシやナラといった木に生る実の俗称だったということです。つまりドングリという種類の木があるわけではなかったのです。こんなあたりまえのことを知るまで、私は20年くらいかかってしまいました。昔から、ぼんやり暮らしていたんですね。

◇ドングリ独楽
 形状やその質感から考えると、私がドングリとは思わなかったカシの木の実も確かにドングリなのですが、どうしてもそう思えないのは形ではなくて大きさの違いによるものです。私にとっては、ドングリの価値はその大きさにあったから。子供の頃に学校の行き帰りに拾って帰るドングリは、大きくてずんぐりしたものが多かったように思います。理由は簡単。そうしたドングリがドングリ独楽にするのに適していたからです。大きなドングリを集めては、家に帰って錐でドングリに穴を開け、その穴に爪楊枝や竹ひごを刺して独楽にし、これを回して遊ぶのが好きでした。私にとってのドングリの価値が大きさにあり、ずんぐりしたものを好んだのも、少しでも長く回り続けるドングリ独楽を作ることが出来るものこそよい「ドングリ」だったからでしょう。ドングリの価値は、よいドングリ独楽が出来ることで決まるとすると、小さなカシの木のドングリはドングリじゃなかったわけです。

◇「同じようなもの」じゃないけど?
 よいドングリ独楽を作るために、いろいろなドングリを見比べていた子供の私には、「団栗の背競べ」という言葉の意味は分からなかったと思います。だって、ドングリの実はどれ一つとして同じではなく、同じ木の同じ枝に生ったドングリでさえ、一つ一つ違っていて、似てなんかいなかったから。千差万別といえるほど様々な形や大きさのあるドングリを「どれもこれも似たようなもの」だの、「大したことのないもの」だというのは、それをいうものに見る目の無いことを物語っているだけだと思います。いくつものドングリを並べて背競べをさせたら、「どれもこれも同じようなもの」なんて簡単にいうことができないことに気づくはずです。私達だって、多分団栗の背競べ。でも、人それぞれに違いがあって、それぞれに特徴があります。それに気が付くかどうかは、どれくらい真剣にそれを見ているかという見る側の問題なんです。そんなことを考えると「団栗の背競べ」にも違った意味があるような気がしてきました。そういえば、家の近くにカシの木が生えていました。子供の頃には小さすぎて独楽にするには今ひとつと、ドングリの数に入れなかったカシの木のドングリですが、今日は拾ってきて並べて眺めてみようかな? 独楽としての価値以外の尺度でもって見直したら、カシの木のドングリも立派なドングリの一つだと理解できるかも。

                          (「2023/11/24 号 (No.6264) 」の抜粋文)
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今年は不作、来年は豊作・振替休日の話 [日刊☆こよみのページ]

■今年は不作、来年は豊作・振替休日の話
 11月も中旬に入り、そろそろ来年の暦が気になる時期となりました。そして、来年のカレンダーを見てみると(こよみのページの、万年カレンダーもよろしくね http://koyomi8.com/sub/cal_year.html 宣伝終わり)、なんだかやたらと目につく振替休日の文字。数えてみると、この振替休日が5日もありました。日付順に並べてみると

   2/12 (月)
   5/06 (月)
   8/12 (月)
   9/23 (月)
  11/04 (月)

 ね、5日もあるでしょう(それぞれの振替休日が、どの祝日の振替休日か、判りますか? 頭の体操1?)。ちなみに、ここでは便宜的に「振替休日」と使っていますが、国民の祝日に関する法律(祝日法)には振替休日という言葉は出来てません。登場するのは「休日」のみ。祝日法3条に休日についての説明があります。次の文は、この条文を抜き出したものです。


  第三条(休日)
   1.「国民の祝日」は、休日とする。
   2.「国民の祝日」が日曜日に当たるときは、その日後においてその日に
    最も近い「国民の祝日」でない日を休日とする。
   3.その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない
    日に限る。)は、休日とする。

 1項は単に国民の祝日は休日になるという話。
 2項が今回採り上げた降る換え休日に関する条文。
 ついでに書けば3項は一般に「国民の休日」(「国民の祝日」ではない)と呼ばれるものです。さて、振替休日に関わる2項の条文をお読みいただくと「なんだか回りくどい書き方」と思われた方がいらっしゃると思います。私もそう思った一人。でも理由があるのです。以前は、祝日と日曜日が重なった場合は、翌日が振替休日となるという単純な条文だったのですが

  5/3 憲法記念日
  5/4 みどりの日
  5/5 こどもの日

 と祝日が連続してしまうようになると、たとえば5/3が日曜日だったとするとその翌日が振替休日となっても、そこは元々みどりの日で祝日で休日だから振替休日がなくなってしまうと言うことが起こるようになりました。こうした場合の振替休日を無駄(?)にしないように、この回りくどい言い回しの条文に改正されました。5/3が日曜日だった場合の例で言えば、5/4,5は国民の祝日なので、この日はスキップして5/6(この例では水曜日となる)が振替休日となるようになりました(2007年に改正)。分かり難い条文ですが、振替休日が無駄にならずに済むのでいいかな?この条文のおかげで救われた振替休日の例としては、再来年の2025年の 5/6(火曜日)があります。ちなみに、今回採り上げた5/3,4,5という祝日の組み合わせ以外にも、時々祝日が連続することがあり、その周辺でもこの回りくどい条文のおかげで無駄にならずになる振替休日が登場することがあります。どんな場合にそんなことがあるかは、皆さんも考えてみてください(※頭の体操2?)。

◇今年は不作、来年は豊作
 ちなみに、今年(2023年)の振替休日は不作。たった1日しかありませんでした。あれ、ことし振替休日あった?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、ありました。ただし、実感がないという方の気持ちもわかります。なぜなら今年の振替休日は1/2 (月)だったからです。正月三が日の間ですから、正月休みの間ですからね。あ、もちろんこの振替休日を生み出す元となった祝日は、一年で最初の祝日である「元日」です。2023年は振替休日が1日だけという不作の年ですが、それが更に正月休み期間にあったことでますます、不作感が募りました。ああ、大凶作の年だ。実は、今年だけでなくその前の2021,2022も振替休日不作の年でした。2021年は 8/9の1日だけ、2022年はなんと0日(本当凶作だ)だったのです。3年連続不作が続いたというのは辛いです。そろそろ豊作の年もという願いがかなってか、来年は冒頭に書いたとおり5日の振替休日。豊作です。来年のカレンダーを調達したら、まずは赤く塗られた休日の数を数えて暫しの間、幸福感に浸ろうではありませんか。

◇忘れないように「頭の体操」再掲
 1. 2/12、 5/06、 8/12、 9/23、11/04 はそれぞれどの祝日の振替?
 2. 5/3,4,5以外で祝日が連続する可能性があるのはどんなとき?

 ちなみに、年ごとの祝日、振替休日、国民休日を確かめたい方は

  日本の祝日・休日の日付一覧 http://koyomi8.com/sub/syukujitsu_table.html

 を使いください(おっと、宣伝だ)。

                          (「2023/11/12 号 (No.6252) 」の抜粋文)
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【山茶花】(さざんか) [日刊☆こよみのページ]

【山茶花】(さざんか)
 (字音サンサクヮの転)ツバキ科の常緑小高木。四国・九州から南西諸島の暖地に自生。高さ約3メートル。葉は厚い。秋冬、白花を開く。八重咲・一重咲、淡紅・濃紅など園芸品種が多く、庭園・生垣などに植栽。種子は大きく、油を採る。材は細工物にする。ヒメツバキ。漢名、茶梅。冬の季語。《広辞苑・第七版》

 山茶花は晩秋から初冬に咲き始める花です。この文字で「さざんか」と読むのはなかなか難しいですが、元はその文字のとおり「サンサクヮ」のように呼ばれていたものが変化して現在の読みになったようです。山茶花は椿とよく似ています。専門的に見ればいろいろと違いがあるのでしょうが、素人目にはなかなか解りません。それがはっきりするのは花が散るときでしょうか。椿は花が枝に付いたままの状態でぽとりと落ち、山茶花は花びらが一枚一枚分かれてはらはらと落ちます。山茶花の古名に「こかたし」というのがあるそうですが、この名前は「小さいかたし」の意味。して「かたし」は何かといえば椿を指す言葉だというので、昔の人も山茶花は小型の椿くらいに思っていたようです。さてこの山茶花ですが、この木は日本原産ということです。木そのものは日本原産ですが「山茶花」という言葉は中国から渡来した物。こうした場合、往々にして物と名前の取り違いが起こるのです。中国では「山茶」が椿の漢名だそうで、椿の花を「山茶花」と書いたそうです。山茶花の漢名はというと「茶梅」。なんだかややこしい。山茶花は冬の初めに咲く花ですが、この時期に咲き始めるもの。椿にもこの頃に咲くものがありますから、日本の山茶花と中国の山茶花(椿)との違いを、見比べて見ることが出来るでしょう。さて、日本の山茶花と中国の山茶花の違い、判りますかね?

                          (「2023/11/09 号 (No.6249) 」の抜粋文)
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「菊の節供」に「菊の花」の話 [日刊☆こよみのページ]

■「菊の節供」に「菊の花」の話
 今日は旧暦の九月九日。「九月九日」といえば、重陽の節供の日付。つまり本日は、旧暦時代であれば重陽の節供の日と言うことになります。重陽の節供といえばその別名は「菊の節供」。菊の節供という呼び名はもちろん菊の花が咲く季節の節供であることからです。菊の花の咲く頃といえば、やはり今ぐらいの季節ですね。

◇菊は渡来植物
 菊(栽培される菊。『家菊(イエギク)』ともいう)はすっかり日本の花という感がしますが、菊の花は中国からの渡来植物だそうです。菊が何年に日本に渡来したかははっきりしませんが、八世紀半ば頃だろうと考えられています。その根拠の一つが万葉集の歌の中に菊の花が登場しないこと。万葉集の歌のうち、年代のわかっている歌で最後のものは AD759年だそうですが、この時期には菊は渡来していないか、渡来していたとしても和歌に詠われるほど、普及してはいなかったということでしょう。現在知られている和歌の内で、菊を詠った歌の最初は、

   この頃のしぐれの雨に菊の花散りぞしぬべきあたらその香を

 だそうです。これは AD794年の桓武天皇の歌。この頃には少なくとも天皇や貴族は菊の花を目にし、菊の香りを楽しんでいたことがわかります。

◇菊は長寿の薬
 菊は漢方薬としてよく効く薬、「上薬」に分類されます。その効能には「耐老延齢」があるとのこと。中国の伝説には、菊の花に宿った水をすすり、数百歳の長寿を得た人物の話があります。重陽の節供の菊酒や、着せ綿によって菊についた夜露を吸い取りこれを口にする風習はこの中国の伝説にある延齢効果にあやかりたいという行事なのですね。私も大分いい年になってきてしまいましたので、そろそろ菊の延齢効果にあやかろうかな?

◇菊の花は日本の国花?
 海外への渡航がごく普通の旅行となりつつある現在ですから、パスポートを目にする機会も増えました。そのパスポートの表紙にあるのは、十六弁一重の菊の花の紋章。日本を代表する紋章として菊が使われるわけですから菊が国花だと思ってしまいがちですが菊の花は国花ではありません。パスポートの表紙には、その国の紋章、あるいはそれに準ずる紋章を入れる国際慣行があります。日本には法的に定められた国章はないので、パスポートの菊の紋章は、国章に準ずる紋章として国を代表する花の一つである菊を図案化したものだそうです。菊の御紋といえば、皇室の御紋章かというと、皇室の御紋章は菊花十六弁までは同じですが弁と弁の間から背面(?)の弁の先端が覗いた八重菊を表す複弁の紋章なので、十六弁一重のパスポートの紋章とは異なっています。よく見ないと、気が付きませんが。ついでに、国花の話が出たついでに、菊が国花でないとしたら、日本の国花はなに? 桜? 正解は、「法律で定まった国花は無い」でした。身も蓋もない話でした。国花が無いので、皇室の紋章となっている菊の花をデザイン化して国章に代わるものとしたようです。最後の話は暦とは関係ありませんが、「菊の節供」にまつわる話として採り上げてみました。

※日本自生の菊
 本日は「菊」、特に栽培される家菊の話でしたので「菊は中国から渡来」としましたが、日本にも西日本や四国に自生する野路菊(ノジギク)があります。以前は家菊の原種かとも考えられたことがあるそうですが、中国にはこの種の菊の自生が確認されていないことから、家菊の原種説は否定されているとのことでした。以上、ちょっとおまけの「菊の話」でした。

                          (「2023/10/23 号 (No.6232) 」の抜粋文)
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【榾木】(ほたぎ) [日刊☆こよみのページ]

【榾木】(ほたぎ)
 1.「ほた」1 に同じ。
 2.椎茸(しいたけ)・なめこ・ひらたけなどを栽培するために伐った椎・栗・櫟(くぬぎ)などの木。 《広辞苑・第七版》

 語釈1に『「ほた」1に同じ』とありますので「ほた」もひいておきます。

 【榾】(ほた)
  (ホダとも)
  1.囲炉裏(いろり)にくべたり焚火などにしたりする木の切れ端。ほたぐい。冬の季語。
   山家集「山深み榾伐るなりと聞えつつ所にぎはふ斧の音かな」
  2.大きな材木。また、地面に倒れている朽木。〈日葡辞書〉 《広辞苑・第七版》

 榾に関しては1だけでよいわけですが、調べたついでなので2まで書いてしまいました。そうか、地面に倒れている倒木も榾というんだと、一つ余計に言葉を知ることが出来て、得した気分になったので。さて、本日この「榾木」という、ちょいっとマイナーな言葉を採り上げたのは、少し前に「ほだぎ」が広辞苑の見出し語にない!ことを発見して驚いたからでした。でも「ほだぎ」じゃなく「ほたぎ」という見出し語がありました。慌て者で済みません。わたしはずっと「ほだぎ」というのだとばかり思っていて「ほたぎ」で辞書を引く発想がなかっただけのことでした。慌て者だなと思いながらも「ほだぎ」でインターネット検索すると、沢山ヒットする(というか「ほたぎ」より沢山ヒットする)ので「ほだぎ」も結構一般的な言葉となっているようです。そんなわけですので広辞苑さん、第八版にはせめて

  ほだぎ → ほたぎ

 くらいの扱いで「ほだぎ」も見出し語に加えてもらえるとうれしいです。広辞苑に無理なお願いを書いたところで話を榾木に戻します。田舎に暮らしていると、この榾木を林の中などで時々見かけます。主に椎茸を栽培するために使われているもので、椎茸原木などととも呼ばれます。最近はこの榾木に椎茸などの菌駒を打ち込んだものが販売されていて

  ほた木 椎茸

 などの検索語で検索すると沢山の通販サイトとそのサイトで販売されている榾木の写真がヒットします。興味のある方は検索してみてください。写真をみれば「あ、これが榾木か」と思う方も結構いらっしゃるとおもいます。こんな菌駒の打ち込まれた榾木を購入すれば自宅でも手軽に椎茸が育つ様子を観察することが出来ます。観察を楽しんだ後には収穫する、調理して食べるという楽しみまでついてきます(私は、最後の「食べる」楽しみは辞退しておりますが)。我が家では、お風呂場の窓辺に榾木をおいて、次々に椎茸が芽吹き(?)、育つ様子を楽しみました。お風呂場の温度、湿度が椎茸の生育にちょうど良いみたいです。家庭菜園よりずっと手軽な家庭での椎茸栽培。

                          (「2023/10/20 号 (No.6229) 」の抜粋文)
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寒露 [日刊☆こよみのページ]

□寒露
 今日は二十四節気の一つ、寒露の節入り日です。寒露は九月節で、節切りの暦ではこの日から九月となります。旧暦では暦月3ヶ月毎に季節を分けて考えており、七~九月が秋の季節とされておりましたので、九月といえばもう秋も終わりの月、晩秋の月となります。もうそんな時期なんですね。江戸時代に出版された暦便覧という本では寒露(かんろ)を

  陰寒の気に合って、露むすび凝らんとすれば也

 と説明しています。このころになると秋もその深さを増して、朝夕は草の上に冷たい露を結ぶようになるということですね。朝、散歩(たまにしかしませんけど)をしていると、確かに草の葉には露が結んでいます。夏草に結ぶ露ならば、露に濡れても暑さを凌ぐ一助ともなって心地よいものですが、寒露の頃の露に触れれば冷たさに思わず身震いしてしまいます。

◇金生水(きんしょうすい)
 五行説では秋は金気、つまり金属の性質を持った季節とされています。金属は、触れば堅くて冷たいものです。金属のこの「堅い」という性質から、秋は堅い木の実(栗やどんぐり、椎の実など)、穀物の実(稲や大豆)が実る季節なのだと古代の人々は考えました。また、ひんやり冷たい金属の表面には露がつきやすいことから、金属は水を生み出す性質があるとも考えられました。ですから五行の金気は金生水(金、水を生ず)と説明されます。このように考えると、金気の季節である秋に二十四節気の内で「露」の着く白露や寒露という名の節気が配されている理由が分かります。秋は、実りをもたらすとともに、大気を冷やして水を生み出す季節なのですね。

◇秋も終盤
 寒露は暦の上の秋の始まり、立秋から数えて60日目頃。一年を四季に分割すれば、一つの季節の長さはおよそ90日ほどですから、秋も終盤と云うことが出来そうです。このころになると菊の花が咲き始め、秋野のにも様々な花を見ることが出来ます。山の木々の葉はそろそろ紅葉の準備に入るころですし、足下の草露は冷たいですけれど、目には楽しい時期といえそうです。さて、寒露を過ぎ更に寒さが増して行けば、やがて冬がやってきます。冬は五行説では水気の季節。金気の秋が草の上に露を結ぶことを繰り返すと、やがて水気の冬が来る。古代の人々はこうして四季が交替して行くと考えたのでしょう。とっても単純な考えですけれど単純だからこそでしょうか、妙に納得できるものがありますね。季節がこうして移り変わってゆくというのはすてきですが、出来ればそんなに早く冬を呼ばなくてもいいと思うのですけどね。最後は寒がりかわうそのぼやきで終わる寒露の話でした。

                          (「2023/10/08 号 (No.6217) 」の抜粋文)
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【郁子・野木瓜】(むべ) [日刊☆こよみのページ]

【郁子・野木瓜】(むべ)
 アケビ科の常緑蔓性低木。暖地に自生。5~7枚の厚い小葉から成る掌状複葉。5月頃、白色で淡紅紫色を帯びる花を開き、佳香がある。暗紫色のアケビに似た果実を結ぶが開裂しない。甘く食用。茎・根などは利尿剤。トキワアケビ。うべ。秋の季語。「郁子の花」は春の季語。〈倭名類聚鈔17〉《広辞苑・第六版》

 秋になると赤紫の楕円形の実が生ります。実は近縁のアケビ(通草)とよく似ていますが、アケビよりやや小ぶり。ただしアケビの実にも小さなものもありますから大きさだけでは区別が難しいのですがアケビとの大きな違いは、実が熟しても口を開かないこと。アケビと違って口の堅いムベです。晩秋には葉を落としてしまうアケビと違って、ムベは常緑。また、芽生えた頃には三葉の葉をつけるのに、その生長に従って葉の数が五葉、七葉と変化することから「七五三」の縁起のよい植物ということで、庭に植えられることもあります。冬にも葉を落とさないことからトキワアケビもと呼ばれます。野生では関東以南の、比較的海に近い場所に好んで自生します。私の生まれ故郷は東北でしたから、アケビはなじみの秋の果実でしたが、ムベの方は関西の海辺の街で暮らすようになってからです。現在、私の自宅は紀伊半島の南端部にほど近い和歌山県の那智勝浦町にあり海岸まで徒歩10分の距離。裏山までの距離はといえば徒歩2分。こんな立地ですので、徒歩2分の距離の裏山の縁辺部にも野生のムベの蔓があり、毎年秋になると、赤紫の実をなる姿を目にします。今年の実りの具合はと見に行けば、雑木の枝葉と蔓の葉の間に熟す前の青い実が5つ、6つ、ぶら下がっているのが見えました。熟すまでにはあと半月程でしょうか。ムベの実の色の変化と共に、秋が深まって行くのでしょう。

                          (「2023/10/05 号 (No.6214) 」の抜粋文)
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