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雷声を出す [日刊☆こよみのページ]

□雷声を出す
 本日は七十二候の十二候(春分の末候)、「雷声を出す」です。現代風に読むと「かみなり こえを だす」ですが、もう少し古い書き方、読み方ですと

  雷乃発声:「らい すなわち こえをはっす」

 という具合になります。私はどちらかというとこの古い読みの方が好きです。(まあ、単なる好みの問題ですが)さて、この七十二候にはこの「雷声を出す」のペアとなる「雷声を収む」と云うものがあります。こちらは七十二候の四十六候(秋分の初候)です。「雷声を収む」で姿を消した雷が、春のこの時期に「雷声を出す」で再び姿を現すわけです。

◇雷は龍、龍は水を司る神獣
 古代の中国では、龍は春分の日に天に昇り、秋分の日には天から降って深い淵に潜んで次の春を待つと考えられたそうです。龍は雷光の曲がりくねった形を神獣の姿ととらえたものだと言われます。この考えからすれば、春分を過ぎた今の頃に神獣、龍が雷声とともに天に昇る頃だというわけです。そして「雷」が鳴り出せば次に来る物は雨。龍は水を自在に操る力をもつ神獣ですから、この龍が呼べば雨はやって来るのです。雷声は、雨の降る季節の到来を告げる声なのです。雨が降り始める季節はまた、農作業の始まる季節でもあります。雷の声で動き出すのは雨も人もまた同じということのようです。雷に呼び出されて雨が降るたびに、気温も上がってやがて春らしい春がやって来ることでしょう。そういう意味では有り難い雨ですが、だからといって雨ばかりもいやですから、「雷声を出す」の日に目覚めた龍が、あまり張り切らず、程々に活躍してくれることを祈ります。(「2019/03/31 号 (No.4565) 」の抜粋文)


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モンシロチョウの季節 [日刊☆こよみのページ]

□モンシロチョウの季節
 近頃、道を歩いていると、菜の花の黄色が目に飛び込んでくる機会が増えました。菜の花が咲くのとそれと軌を一にするかのように姿を現すのがモンシロチョウ。私は田舎育ちでしたから、小学校の行き帰りの道の両側には畑や田んぼが広がっていました。そんな畑の中にはいつも緑色の野菜が育っているものでしたが、春の一時は緑ではなくて「黄色」に変わる畑がありました。アブラナの畑です。アブラナの畑は、春の一時はアブラナの畑ではなくて「菜の花畑」とその名を変えます。アブラナの茎や葉の緑は相変わらずあるはずですが、目につくのはその緑を覆い尽くすように咲く黄色の花だからでしょう。そんな菜の花畑が出現すると、一面黄色くなった畑の上を白い蝶々があっちへヒラヒラ、こっちへフラフラと舞い飛びます。モンシロチョウは菜の花畑だけにいるわけではないのですが、一面が黄色に染まった菜の花畑の中に紅一点ならぬ白一点(数点かな?)となるモンシロチョウの印象が強いために、菜の花とモンシロチョウがセットになっているように思えるのでしょうか。

◇モンシロチョウはアブラナと一緒に
 モンシロチョウの幼虫である青虫の好物はアブラナ。他にキャベツやブロッコリーなども青虫の好物。どれも「アブラナ科」に分類される植物です。モンシロチョウは偶然に菜の花畑の上を飛んでいるわけではなくて、生まれも育ちもアブラナと一緒だということでした。でも、そうだとすると大昔の日本にはモンシロチョウはいなかったのかな?なぜなら、アブラナは海を渡って日本にやって来た野菜だと云われているからです。ウィキペディアでモンシロチョウの項目を見ると、モンシロチョウは同じくアブラナ科の植物であるダイコンが奈良時代に渡来した時に、一緒に海を渡ってやって来た昆虫のようです。モンシロチョウは生まれも育ちも、そしてその歴史もアブラナ(及びアブラナの仲間の植物)と一緒ということなんですね。今、私が暮らしている東京の街中では一面の菜の花畑という景色を見ることはありませんが、花壇の中に、あるいは道路の脇の草の間に黄色の菜の花を見ることが出来ます。あの黄色の菜の花の間にも、その花を咲かせているアブラナとともに生まれ育ったモンシロチョウが、ヒラヒラとフラフラと舞っているのでしょうか。何はともあれ、菜の花の開花とともに、モンシロチョウの季節が始まりました。モンシロチョウの季節はこれから秋まで。その間にモンシロチョウは卵から幼虫、さなぎ、そして成虫というサイクルを4~5回繰り返し、さなぎの状態で冬を越して次のモンシロチョウの季節を待つそうです。ちなみに暦の上にも七十二候として「菜虫蝶となる」(啓蟄の末候、3/16~3/20)という言葉があります。暦の上でも今は、モンシロチョウの季節ということですね。(「2019/03/26 号 (No.4560) 」の抜粋文)
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【木蓮】(もくれん) [日刊☆こよみのページ]

【木蓮】(もくれん)
 (または、「木蘭」とも書く)モクレン科の落葉低木。中国の原産。高さ約4メートル。まばらに枝を分かつ。春、葉に先立って暗紅紫色6弁の大形の花を開く。近縁のハクモクレン・トウモクレンなどと同じく、観賞用に植栽。紫木蘭(しもくれん)。マグノリア(属名)。モクレンゲ。春の季語。 《広辞苑・第六版》

 「暑さ寒さも彼岸まで」その言葉の通り、ここ2~3日春らしい暖かな日が続き、この暖かさに答えるように、東京でも桜の花が咲き始めました。そんな時期に、桜の影に隠れてしまいがちですが、白くて大きな花を空に向けているかのように咲かせている木があります。それが木蓮です。一昨日、彼岸の中日に当たる春分の日に、公園を歩いていると桜の木の下で頭上を見上げる家族連れ、カップルの姿がそこかしこにありました。皆一様に、咲き始めたばかりの数輪の花を見上げているのでした。桜の木の横には、今を盛りと白い花を咲かせている白木蓮の木がありましたがその花に目を向ける人はいないようでした。木蓮の花には白と紫の花があり、白い木蓮は白木蓮(はくもくれん)ともいいます。父の実家の庭には、この白木蓮の木がありました。春には白い花を咲かせる大きな木でした。後で知ったところでは、その木蓮の木は父が植えたものでした。若い頃の父が植えた時には、きっと小さな木だったでしょうこの木は、私が子供の頃には既に、その庭一番の大木に育っていました。子供の頃に目にした木蓮の花は白色だったことから、木蓮は全て白い花を咲かせるものだと思っていたのですが、10年ほど前に紫の花を咲かせるものがあることを知って驚きました。しかし、もっと驚いたのは単に「木蓮」といえば、この紫色の花を咲かせる方を指すのだと云うこと。白木蓮と区別して云う場合は、紫木蓮とも云うようです。最初に紫木蘭を見たときには、「花は紫色だけれど、木は木蓮そっくりだな」と間の抜けた感想を抱いたものでした。白木蓮の咲いていた公園までの道すがらには、庭に紫木蓮の木のあるお宅も有り、こちらの花も盛大に咲いていました。白木蓮も紫木蓮も、どちらの木蓮も花の盛りのようですね。「花といえば桜」とは云いますが、春に咲くのは桜ばかりではありません。もし見かけることがあれば、紫の、あるいは白の木蓮の花も、見上げてあげて下さいね。(「2019/03/23 号 (No.4557) 」の抜粋文)

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暑さ寒さも彼岸まで [日刊☆こよみのページ]

□暑さ寒さも彼岸まで
 春ならば余寒の寒さも薄らぎ春らしくなり、秋ならば残暑もしのぎやすくなる、その目安となるのが彼岸であると言い習わされて来た言葉です。今日、2019/03/18は春の彼岸の入り。冬の寒さもそろそろおしまいと考えてよいのかな?今朝は確かに、外に出る際にコートを着て行くべきか、それとも・・・と考えるくらいに暖かい朝でした。ああ、嬉しい。

◇春と秋の彼岸
 彼岸が春と秋にあり、この言葉も春の彼岸、秋の彼岸を同等に扱った言葉のようですが、我々の感じる暑さと寒さには多分に「慣れ」の問題があって、温度計の示す気温とは違っているようです。「暑さ寒さも彼岸まで」といえば、暑い時期も寒い時期も彼岸辺りで終わりとなってあとは快適な気温の過ごしやすい季節となるという意味で使っています。ですが実際の気温の変化を見てみると、春と秋とでは大違い。東京の月平均気温を平均して、春の春分と、秋の秋分の気温を比較すると、この二つは大分違います。春の彼岸の時期の平均気温は 8℃。対して秋彼岸の平均気温は23℃ほどとその差はおよそ15℃あまり。15℃の気温差といえば大変なものですが、寒い冬を越した春分の彼岸と、暑い夏の後にやってくる秋彼岸とではこんなに違っているのに、イメージの中では、彼岸の頃になると寒暑も止んで過ごしやすい時期と並べて考えられるようになるのです。ほんと、人間の慣れってすごいです。今朝の東京も、暖かいといっても気温は11℃。秋の彼岸の頃を考えたら、とっても寒い朝のはずですが、この気温が暖かく感じられます。気温の数字はだいぶ違いますけれど、人間にとっては確かに暑さ寒さも彼岸までのようですね。(「2019/03/18 号 (No.4552)」の抜粋文)
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【猫柳】(ねこやなぎ) [日刊☆こよみのページ]

【猫柳】(ねこやなぎ)
 カワヤナギの季節的な愛称。花穂の銀毛が猫を思わせるのでいう。特に切り花を指す。春の季語。
 《広辞苑・第六版》

 いつもお世話になっている広辞苑には「カワヤナギの季節的な愛称」とありましたが、手持ちの何冊かの植物図鑑で調べてみると、ネコヤナギはネコヤナギのようです。ある図鑑ではわざわざ、「カワヤナギと呼ばれることもあるが、カワヤナギという別種があるのでまぎらわしい」とまで書いていますから、違う種類のようです。植物の分類では猫柳はネコヤナギか、カワヤナギの異称かという問題はあるでしょうが、私からすれば雪解けの頃、川べりで見かける銀白色の綿毛におおわれた花(花序)をつけたヤナギはみんな猫柳です。猫柳の名前はやはりあの銀白色の綿毛をまとった花が猫と見立てたことからついたものでしょう。ネコヤナギの異称の一つにはエノコロヤナギというものがあるそうですが、こちらはこの綿毛の花を犬と見立てたものです。

  エノコロ = 犬子、犬児、狗児

 どちらもあの花がふさふさの和毛(にこげ)を連想させることから付いた名前なのですね。その和毛が猫か、犬かの違いだけです。ただ、この和毛の主が狼や熊や狸や狐ではなく、古くから人間と暮らしていた猫や犬とされた辺りは、この猫柳がそれだけ身近に感じられる植物だったことをうかがわせます。まだ雪がそこここに残る川岸から、銀白色の花をいっぱいつけた枝を水面に差し掛けるように伸ばす猫柳を目にすると、春が来たなとしみじみと実感します。(「2019/03/17 号 (No.4551) 」の抜粋文)
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【桃】(もも) [日刊☆こよみのページ]

【桃】(もも)
1.バラ科の落葉小高木。中国原産。葉は披針形。4月頃、淡紅または白色の五弁花を開く。果実は大形球形で美味。古くから日本に栽培、邪気を払う力があるとされた。 白桃・水蜜桃のほかに、皮に毛のないツバイモモ(アブラモモ)、果肉が黄色の黄桃(おうと う)、扁平な蟠桃(はんとう)、観賞用の花モモなど品種が多い。仁・葉は薬用。「桃の花」は春 の季語、「桃の実」は秋の季語。万葉集19「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に 出で立つをとめ」
2.木綿きわたの実。
3.襲(かさね)の色目。表は紅、裏は紅梅。また、表は白、裏は紅。一説に、表は薄紅、中陪なかべ は白、裏は萌葱もえぎ。3月頃用いる。
4.紋所の名。桃の実や花をかたどったもの。《広辞苑・第六版》

 七十二候の八番目、啓蟄の次候は「桃始めて咲く」。時期としては、3/10頃、今年(2019年)は3/11です。桃の花は、梅、桜と並び春を代表する花。私の中では梅が咲いて桜が咲いて、日差しも和らいだ頃に咲くのが桃の花というイメージがあります。そのイメージからすると桃の花の咲くのはもう少し後ということになるのですが、「始めて咲く」ということですから、ぼんやりしている私が気づかないどこかで、咲き始めた花があるのでしょうね。中国では桃には邪気を祓う霊力のあると信じられていました。上巳の節供に桃の花を飾り桃酒を飲むのもそうした桃の霊力によって、邪気を遠ざけるためなのです。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉平坂(よもつひらさか)で追ってくる黄泉の国の鬼女を追い払うために桃の実を投げつけたというのも、桃には霊力があると考えていた証なのでしょう。桃の花が何処かで咲き始めれば、きっと「邪」と冬の寒さを遠ざけて、幸いと春の温もりを呼び寄せてくれることでしょう.。(「2019/03/11 号 (No.4545) 」の抜粋文)

■埋め草の記 (「編集後記」のようなもの)
 もうなのか、まだなのか、東日本の震災から今日で8年が経過しました。長い歴史を綴ってきた中国の王朝の正史(正式な歴史書)は、前の王朝が滅びてから百年以上経って、初めて書かれるとか。なぜそれだけの年月をおくのかというと、それだけの年月をおかないと、客観的な「歴史」として前王朝を見ることが出来ないからだそうです。自分自身や、自分の身近な人が関わった事柄を語ると、どうしても語る者の主観が混じってしまう。それを極力配するためには、百年という年月が必要だということのようです。百年が必要かどうか、それは判りませんが2011/03/11の出来事を歴史として語るには、8年はまだ十分な長さではないようです。それでもこの8年の間、巡って来た春の度に咲いた桃の花が、あの年の禍々しい災害の記憶を祓い鎮めてくれていたらよいのですが。
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啓蟄と驚蟄 [日刊☆こよみのページ]

□啓蟄と驚蟄
 今日、3/6 は二十四節気の啓蟄の節入日です。度々話に登場する二十四節気ですが、これが太陰太陽暦であった旧暦の暦日と季節とを結びつけるために古代中国で考案されたもので、暦の伝来と共に日本にも伝わり、現在まで使われてきました。さて、上に書いた経緯のとおり生まれは中国で、それが輸入されたものですので、二十四節気は日本にも中国にも有ります。中国の二十四節気を並べてみると、

  立春、雨水、驚蟄、春分、清明、穀雨、・・・

 と日本と同じ順に同じ言葉が並びます。ただ一つをのぞいては。さて、中国と日本の二十四節気のうちただ一つ異なる言葉は上述した 6つの中にあるのですが、どれがその異なった言葉か判りますか?その違った言葉とは、「驚蟄(きょうちつ)」。本日のタイトルが「啓蟄と驚蟄」ですから、これに気が付けば答えは簡単ですね(テストの答えを事前に黒板に書いてる見たい)。既に書いたとおり、日本の二十四節気は中国から伝わったもので他の二十三は同じ漢字が使われています。ではなぜ啓蟄だけ日本と中国で言葉が違っているのでしょうか?

◇本当は「啓蟄」
 本家の中国が「驚蟄」ですから、こちらが本来の漢字のように誤解する方もいるのですが、さにあらず。日本の「啓蟄」が本来の字で、中国の「驚蟄」は、日本に暦が伝来した後で変化した言葉なのです。啓蟄は、古代中国の周王朝時代に成立した『礼記』の月令にある「蟄虫始振」から生まれた古い言葉なのですが、この言葉が漢王朝の時代に「驚蟄」に直されました。この変更には中国の「諱(いみな)」の慣習が関わっています。諱とは、貴人や目上の人、死者などをその本名を呼ぶことを避けるという慣習なのです。王や皇帝といった場合はその王朝が続く間は、この文字を使うことを避けるのが通例でした(中には、その影響を考えて避諱を免ずる詔を下す君主もいました)。啓蟄の「啓」は漢王朝の六代皇帝、景帝の諱でしたので、この文字が使えなくなりこれと意味の似ている「驚」という字で置き換えられるようになりました。漢王朝が滅んでからは、「啓」を避ける必要はなくなり、暦の上の文字も再び啓蟄に戻ります。そしてこの「啓蟄」に戻っていた時代の暦が日本に輸入され、日本では「啓蟄」の文字が使われるようになりました。本家中国ではどうなったかというと、一度は啓蟄に復したのですが、使い慣れた「驚蟄」の方がよいということで、再度「驚蟄」に戻されました。日本には、もちろんこの「驚蟄」と書かれた中国の暦も輸入されてきたのですが、日本においては中国の王朝の諱を避ける必要もありませんし「驚蟄」を使い慣れたということもないわけでしたので、変更されることなく啓蟄が使われ続けました。結果的には、日本の二十四節気の方が、二十四節気本来の文字を今に伝える結果になっています。二十四節気にまつわるちょっとだけ不思議な話でした。(「2019/03/06 号 (No.4540) 」の抜粋文)

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上巳の節供の植物 [日刊☆こよみのページ]

□上巳の節供の植物
 今日は 3/3。上巳(じょうし)の節供です。本来は、三月初め(上)の巳の日に祝われたことから上巳の節供と呼ばれ、これが本当の名前なのですが、現在は桃の節供とか雛祭りと呼ばれるのが普通で、上巳の節供と言ってもあまりぴんと来ないかもしれません。今回は、本当の名前よりみんなに認知されているであろう「桃の節供」という呼び名についてのこぼれ話です。

 上巳の節供と思われる行事については中国の詩経鄭風に既に「三月上巳に蘭を水上に採って不祥を祓除く」と書かれています。詩経の成立は紀元前9~7世紀とされているので、3000年近く昔にはそれらしい行事が行われていたことになります。もちろん日本での行事はこんな昔の話ではなくて、奈良・平安の頃中国のこの行事が伝わってきたものです。ここで問題は詩経の内容、「三月上巳に蘭を水上に採る」です。登場したのは「桃」ではなく「蘭」です。もっともこの蘭は我々の考える蘭ではなくて藤袴(ふじばかま)のことだと考えられています。藤袴と言えば秋の七草の藤袴ですが、藤袴は蘭に似た芳香を放つ植物なので、蘭の仲間と考えられたのかもしれません(花は似てもにつかないものですけれど)。芳香を放つ草は悪いもの、禍々しいものを祓う霊力があると考えられていたことから、これはそうした不祥を祓う行事だったのでしょう。また「水上に採る」とは「水辺で採る」の意味です。水辺というのは水による穢れ祓い(禊ぎ)の際にこうした芳香を放つ草をその近くで調達したと言うことでしょうか。

 端午の節供と関係の深い菖蒲もまた、芳香を放つ水辺の植物ですが、これも節供が邪を祓う行事であって、その呪術的な道具として芳香を放つ水辺の植物が使われたことを示しています。そして、身に付いた不祥は自分の身代わりの人形(古くは草人形、後には紙や布で作ったもの)に移して河に流していました。各地に残る「流し雛」の行事はこうした古い上巳の節供の姿を残したものです。古い時代の節供には、この「邪を祓う」という行為が主であったので、関係する植物も邪を祓う水辺で調達出来るものが使われたようです。ですから、上巳の節供の始まりの頃まで遡ると今私たちが普通に「桃の節供」と呼ぶような、桃の花との直接の結びつきはなかったようです。桃の花と上巳の節供が結びつくようになったのは何時かということはよく解らないのですが、どうやらこうした「邪を祓う行事」の意味が薄らぎ、お雛様が河に流されるような簡易なものから、家に飾られる豪華な雛人形に変わってから以降と考えられます。だとすると室町時代の終わり頃でしょうか。お雛様を家に飾り、様々な装飾を加える中で、香りによって邪を祓うための呪術的な道具としての「草」から、装飾にも用いられる「花」へと変貌したのでしょうね(芳香を放つという点では通じます)。

 桃の花自体は、前出の詩経の時代から佳い娘になぞらえられる花で有りましたし、鬼や邪気を祓う霊力のある植物であるとも考えられていた(鬼退治と言えば、桃太郎。これも「桃」による鬼追いの話です)ので、女児の節供にはぴったりの花として上巳の節供と結びついたのではないでしょう。我々にとっては上巳の節供と言えば桃の節供のことですが、最初から桃の節供として生まれたわけでは無さそうです。「伝統行事」と一口に言いますが、こうしてよく見てゆくと、始めから今のような姿で生まれたわけではなくて、それぞれの時代時代に様々なことが付け足され、あるいは忘れられながら姿を変えて今の伝統行事になって来たことが判ります。伝統行事は、無闇に「昔の形」にこだわるより、それぞれの形に込められた先人の思いを、時代に合わせて継承してつくって行くものだと思いますが、いかがでしょうか?(「2019/03/03 号 (No.4537)」の抜粋文)

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