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【蒲公英】(たんぽぽ) [日刊☆こよみのページ]

【蒲公英】(たんぽぽ)
 キク科タンポポ属の多年草の総称。全世界に広く分布。日本にはカンサイタンポポ・エゾタンポポ・シロバナタンポポ、また帰化植物のセイヨウタンポポなど10種以上あり、普通にはカントウタンポポをいう。根はゴボウ状。葉は土際に根生葉を作り、倒披針形で縁は羽裂。春、花茎を出し、舌状花だけから成る黄色の頭状花をつける。痩果は褐色で、冠毛は白色、風によって四散する。若葉は食用、帯根全体を乾燥したものが漢方生薬の蒲公英(ほこうえい)で健胃・催乳剤。たな。春の季語。文明本節用集「蒲公草、タンホホ」 《広辞苑・第六版》

 小さな子供に春の花の絵を描かせたとき、描かれる花の双璧はチューリップとタンポポではないでしょうか。小さな子供と言わず、大人でも同じかもしれませんがね。それだけ、二つが親しまれてきた花だということは間違いないでしょう。双璧を為すチューリップとタンポポですが、それを見かける場所は大分違います。チューリップの咲く場所といえば花壇や植木鉢。或いは、その球根を得るために栽培されたチューリップ畑といった人の手の入ったところ。一方のタンポポは道ばたや野原といった人の手の入らない場所。花壇でチューリップとタンポポが同居している場合もありますが、この場合でもチューリップは人が植え、タンポポは勝手に生えてきたものでしょう。タンポポは実に生命力旺盛な野生の花なのです。

◇タンポポ戦争
 春になれば何処ででもよく見かけるタンポポですが、全部同じタンポポというわけではありません。異なる種類のタンポポ同士では、タンポポ同士の熾烈な生存競争が行われています。こうした戦いは昔から行われていたのでしょうが、そうした戦いの結果、関西地方に多いシロバナタンポポ、中部・関東地方に多いカントウタンポポ、関東以北に多いエゾタンポポといった形で棲み分けが進み、日本国内では一定の平和が出現していました。この平和を破ったのは明治のはじめに西洋から海を渡ってやって来たヨーロッパ原産の西洋タンポポの出現。日本国内で均衡を保って一定の棲み分けを行っていた在来種と新参の西洋タンポポとの間で、再び熾烈なタンポポ戦争が始まりました。このタンポポ界の覇権をめぐる戦いは、今のところは生命力に勝る新参の西洋タンポポが優勢(圧倒的?)。在来のタンポポたちは苦戦を強いられているようです。この春、道ばたで見かけるタンポポは、どちらの軍勢のタンポポでしょう?春の散歩の際には、植物図鑑片手にタンポポ戦争の成り行きを追跡調査なんてしてみるのも一興ですね。(「2021/03/28 号 (No.5293) 」の抜粋文)
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江戸の桜の咲くころ [日刊☆こよみのページ]

□江戸の桜の咲くころ
 東京では桜の花が大分開いて、そろそろ見頃の時期。今も昔も、この時期になると多くの人が楽しみにしているのが花見。今年は、昨年同様で、まだまだいつものお花見には戻れていないですが、それでも桜の名所で桜を見上げることくらい出来そうです。「今も昔も」で今の話をしたところで、ここからは昔の話へ。斎藤月岑の書いた『東都歳時記』の二月の項には江戸の花見の様子が描かれていますので、本日は東都歳時記にある桜の見頃の時期を眺めてみることにしましょう。なお、本日活躍してくれる東都歳時記は天保九年(AD1838)に刊行された本で、江戸の昔の風俗を知る上で大変重宝な本です。

・彼岸櫻(ひがんざくら)
 立春より五十四五日目頃より (新暦3/29頃)

  東叡山 山王、車坂、二ツ堂の前両側、四軒寺入口。寒松院の原犬ざくら
  其他、上野山中は彼岸櫻多し ・・・後略・・・

・枝垂櫻(しだれざくら)
 立春より五十四五日目頃より (新暦3/29頃)

  東叡山(坊中に多し) 谷中日暮里 湯島麟祥院 根津権現社 小石川傳
  通院 大塚護持院 広尾光琳寺 ・・・後略・・・

・単弁櫻(一重桜 ひとえざくら)
 立春より六十日め頃より (新暦4/4頃)
 
  東叡山 谷中七面宮境内 駒込吉祥寺 小石川白山社地旗櫻 大塚護国寺
  小金井橋の両側 江戸より七里余りなり。・・・後略・・・

・単弁櫻(一重桜 ひとえざくら)
 立春より六十五日め頃より (新暦4/9頃)

  東叡山 飛鳥寺 ・・・中略・・・ 豊島足立の野径を見渡し、風景等尋
  常ならず。毎春遊観多し。王子金輪寺の前 ・・・後略・・・

・重弁櫻(八重桜 やえざくら)
 立春より七十日め頃より (新暦4/14頃)

  東叡山 谷中日暮里 諏訪社辺、田園の眺望いとよし。・・・中略・・・
  道灌山の辺雲雀多し。王子権現社辺瀧の川 根津権現社内 谷中天王寺 
  同瑞林寺 品川御殿山 ・・・後略・・・

・遅櫻(おそざくら)
 立春より七十日め頃より (新暦4/14頃)

  東叡山 浅草寺の千本ざくら、深川八幡の園女が歌仙櫻は今少し。
  以上家父縣麻呂が撰置る『花暦』の一枚刷りによりて日並を録す。

  且ここに記せしは、開きそむべき日並なり。真盛を見んとならば、これよ
  りおくれて見るべきなり。櫻に限らず、開花の時候大概定りあれども、年
  の寒暖によりて、少しの遅速あり。・・・後略・・・

 東京の方なら知った地名が結構並ぶのでは無いでしょうか。たびたび登場する「東叡山」は上野寛永寺の山号です。上野は当時から、東都(江戸)第一の桜の名所として有名でした。遅櫻の項の後にこれは開花の時期だと書いてありますから、花見の時期は今よりは多少遅い時期でしょうか。この辺は当時の桜と現在主となっている染井吉野の開花時期の差でしょう。

◇開花の時期は「立春からの日数」
 ごらんになって分かると思うのですが、開花の時期の記述は立春より○○日目頃と有ります。現在ならこんな回りくどい書き方はせずに、○月×日頃と書くはずです。ちなみに前述の説明でも立春より○○日目頃 (新暦 M/D 頃)と()に日付けを入れたのは私。皆さんがその時期をイメージしやすいように。カレンダーを横において、立春からの日数を数えるのは大変でしょうから。なぜ東都歳時記では桜の開花の時期を「月日」で書き表さなかったのかといえば当時の暦(いわゆる旧暦)では、暦の日付けと季節との関係が年によって最大 1ヶ月あまりもずれてしまうためです。季節との関係が年によって1ヶ月も違ってしまう旧暦の「月日」は、桜の開花の時期のような季節の巡りに連動する自然現象を表すには適していなかったためなのです。東都歳時記が桜の開花時期を示す基準とした「立春」はご存じのとおり二十四節気の一つ。二十四節気は元々太陰暦の欠点である暦の日付けと季節との日付のずれを補正するための仕組みで、太陽の動きから作られたものなので四季の巡りと連動しています。ですから、これを直接基準として使う方がより正確に季節の変化を表現できます。同じように季節の変化の目安として、立春からの日数で示されたものとしては、

  八十八夜、二百十日、二百二十日

 などがよく知られています。「旧暦は日本の季節によく合う暦だ」という主張(?)を聞くこと、見かけることがありますが、それはどうかと思います。本当に旧暦の日付が日本の季節によく合うのなら、その暦を使っていた江戸時代の人々が、暦の日付でなくて立春からの日数で桜の開花時期を記録する必要などなかったと思うのですが。新暦でいえば「○月×日頃」と簡単に書けるのに、わざわざ立春からの日数なんて言う面倒な方法で桜の開花のような季節の変化を表す事柄を書き表していたことを見ると、旧暦の日付では季節の変化を適切に表せないことを、実際にその暦(旧暦)を使っていた人たちは知っていたということですね。さてさて、本日は快晴。通勤でいつも利用している地下鉄の桜田門駅から職場までの経路(ちょっと遠回りな経路)には桜並木があって、その並木の桜は満開までもう少し。今日は、桜の花を見上げながら、職場までの道を歩くことにします。(「2021/03/25 号 (No.5290)」の抜粋文)
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菜虫蝶と化す [日刊☆こよみのページ]

□菜虫蝶と化す
 今日は七十二候、「菜虫蝶と化す」の期間の始まりの日です。「菜虫(なむし)蝶と化す」は二十四節気の啓蟄の末候。地中から虫たちが姿を現し始める啓蟄の期間の終わりには、地中から姿を現した虫が蝶になってゆくのですね。もっとも、蝶にかわる青虫などは土から出てくるわけではありませんけれど。私個人の体験からすると、蝶がひらひらと舞う季節というのはもう少し先のような気もしますが、早起きで働き者の虫はもう蝶となって、菜の花畑を飛び回っているのかも知れません。菜虫の時期と、蝶の時期にはふれられているけど、その間にある、さなぎの時期は?なんて話はここでは忘れて、この時期には蝶が姿を現す時期なんだなと、暦の話として受け入れて頂きましょう。
 
◇夢見鳥(ゆめみどり)
 菜虫から姿を変えた蝶は、またの名を「夢見鳥」ともいいます。「夢見鳥」の名は、荘周胡蝶の夢の故事に由来します。昔、荘周(荘子)が夢の中で蝶となり、花と花の間を楽しく飛び回った。蝶となって花々の間を飛び回っている間、荘周は蝶そのものであって、人間の荘周が夢で見た存在だとは思いもしなかった。夢から覚めて、荘周は自分が人間であったと思い出したが、そこでふと疑問が湧いた。夢の中で蝶であったとき、自分は蝶そのもので、人間の夢の中の存在だなととは露ほども思わなかった。今、夢から覚めた自分は人間だと思っているが、それは本当だろうか。もしかしたら、人間荘周だと思っている自分は、蝶の見た夢の中の存在なのかも知れないと。辛いことも楽しいこともあるありながら1/2世紀以上も生きてきたと思っている私の人生も、もしかしたらどこかの菜の花の上で、ウトウトしている蝶の見た長い夢なのかも知れません。

◇「菜虫蝶と化す」時期は?
 七十二候の「菜虫蝶と化す」の期間は、今年は3/15~3/19の間ですが、実際の蝶と化す時期は?1995年に出版された「気候図ものがたり」という本に、気象庁のモンシロチョウの初見の日付が書かれています。その日付によれば、

  鹿児島 3/6 , 福岡 3/16 , 高知 3/8 , 鳥取 3/25 , 広島 3/17 ,
  大阪 3/31 , 京都 3/26 , 名古屋 3/27 , 長野 4/3 , 前橋 3/30 ,
  新潟 4/9 , 仙台 4/5 , 青森 4/22 , 札幌 4/26

 だとか。なるほど、七十二候の「菜虫蝶と化す」の日付は、実際の蝶(ここではモンシロチョウ)の初見の日付と合致しているといってもよさそうです。ちなみに、「気候図ものがたり」のモンシロチョウの初見の日付の一覧には那覇と東京の名前もありましたが、どちらも日付の欄は「-」となっていました。那覇は温かいので一年中モンシロチョウが飛んでいるから「初見」がないのか? 東京に初見の日付が無いのは、調査の対象項目にないからでしょうか?

◇暦の上の季節感と個人の季節感
 先に、個人的体験では蝶がひらひら舞う季節というのはもう少し先のような気がしますとしましたが、私の生まれは福島県ですので、それに近い仙台のモンシロチョウの初見の日を見ると4/5。暦の「菜虫蝶と化す」の時期と、私の感覚がずれているのは私の感覚が子供時代を過ごした東北の気候にあわせて形作られたものだからのようです。みなさんの感覚での蝶の舞う季節は、七十二候の「菜虫蝶と化す」と合致していますか?ご自分の感覚と暦の日付の差から、自分の感覚が形作られた過程を振り返ってみるのも暦の楽しみ方の一つかも知れません。(「2021/03/15 号 (No.5280)」の抜粋文)

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【桃】(もも) [日刊☆こよみのページ]

【桃】(もも)
1.バラ科の落葉小高木。中国原産。葉は披針形。4月頃、淡紅または白色の五弁花を開く。果実は大形球形で美味。古くから日本に栽培、邪気を払う力があるとされた。白桃・水蜜桃のほかに、皮に毛のないツバイモモ(アブラモモ)、果肉が黄色の黄桃(おうとう)、扁平な蟠桃(はんとう)、観賞用の花モモなど品種が多い。仁・葉は薬用。「桃の花」は春の季語、「桃の実」は秋の季語。万葉集19「春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つをとめ」
2.木綿きわたの実。
3.襲(かさね)の色目。表は紅、裏は紅梅。また、表は白、裏は紅。一説に、表は薄紅、中陪なかべは白、裏は萌葱もえぎ。3月頃用いる。
4.紋所の名。桃の実や花をかたどったもの。
   《広辞苑・第六版》

 七十二候の八番目、啓蟄の次候は「桃始めて咲く」。時期としては、3/10頃(2021年は3/10 ~ 3/14)です。桃の花は、梅、桜と並び春を代表する花。私の中では梅が咲いて桜が咲いて、日差しも和らいだ頃に咲くのが桃の花というイメージがあります。そのイメージからすると桃の花の咲くのはもう少し後ということになるのですが、「始めて咲く」ということですから、ぼんやりしている私が気づかないどこかで、咲き始めた花があるのでしょう。中国では桃には邪気を祓う霊力があると信じられていました。上巳の節供に桃の花を飾り桃酒を飲むのもそうした桃の霊力によって、邪気を遠ざけるためなのです。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉平坂(よもつひらさか)で追ってくる黄泉の国の鬼女を追い払うために桃の実を投げつけたというのも、桃には霊力があると考えていた証なのでしょう。今日3/10は東京大空襲記念日、明日3/11は東日本大震災発生の日と、負の記念日ともいえる日付が続きます。そうした日付につきまとう禍々しさも、この時期に花を咲かせる桃の霊力が、いつかは祓い鎮めてくれるでしょうか。(「2021/03/10 号 (No.5275)」の抜粋文)
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啓蟄と驚蟄の話 [日刊☆こよみのページ]

■啓蟄と驚蟄の話
 今年(2021年)の啓蟄の期間は、3/5~3/19。皆さんの周りで、冬眠から目覚めた虫たち(蛇や蛙も虫に含まれます)を目にしましたか? 私の周りの虫たちは・・・まだまだです。寝坊助なのかな?さてさて、暦の話となると度々話に登場する二十四節気は太陰太陽暦であった旧暦の暦日と季節とを結びつけるために古代中国で考案されたもの。これが暦の伝来と共に日本にも伝わり、現在まで使われてきました。二十四節気は元々中国で生まれたものが日本に伝わったものですから、私たちがなじんだ二十四節気は、当然中国にもあります。中国の二十四節気を並べてみると、

  立春、雨水、驚蟄、春分、清明、穀雨、・・・

 と日本と同じ順に同じ言葉が並びます。二十四節気をさらに細分した七十二候は中国から伝わった後、日本の気候や風物に合わせて大きく作り替えられ、日本風の七十二候と言うことで本朝七十二候などと呼ばれる、本家中国と違ったものになってしまいましたが、二十四節気の方は、そうした変更はなされず、日本が中国の暦を学び始めた時代の姿をそのままに残しています。ですから、二十四節気は現在も日本と中国で、同じものが使われています・・・のはずなのですが?ところがです、日本に伝わったときのままの姿をとどめているはずなのに、現在の中国と日本の二十四節気を比べると、実は違っているものが一つだけあります。中国の二十四節気の例として既に書いた6つの節気の中に、それが混じっていたのですが、お気づきになりましたか? 違っている言葉とは

  驚蟄(きょうちつ)

 です。日本の二十四節気ではこれは、ご存じの通り

  啓蟄(けいちつ)

 となっています。どこで変わってしまったのでしょうか?

◇本当は「啓蟄」
 本家の中国が「驚蟄」ですから、こちらが本来の漢字だったのだと思うのが普通でしょうけれど、今回の話の場合はそうではありません。元々の文字は現在も日本で使われている「啓蟄」の方なのです。啓蟄は古代中国の周王朝時代に成立した『礼記』の月令にある「蟄虫始振」から生まれた古い言葉で、既に書いたとおりその始まりの時点では「啓蟄」と言う文字が使われていました。この言葉が漢王朝の時代に「驚蟄」に改められました。この改変には、中国の諱の慣習がかかわっています。諱とは、貴人や目上の人、死者などをその本名を呼ぶことを避けるという慣習なのです。諱という習俗は、本名とはその名を持つ人物の霊的な人格と強く結びついたものであって、本名を口にすることでその人を支配することが出来るという呪術的な俗信から来ています。この習俗が広く行き渡った中国では、人の本名、特に目上の人の本名を口にすることは大変失礼な行為であると考えられました(このような実名を避ける習俗を「実名敬避俗」というそうです)。特に皇帝(天子)の諱については厳密に適用され、公文書ではその文字を使うことが一切出来ませんでした。皇帝の名前の文字が入っている人の名前や地名、役職などは変更されました。と言うことで、啓蟄が啓蟄のままではいられなかった事情がお解りになりましたね?啓蟄の「啓」は漢王朝の六代皇帝、景帝の諱でしたので、景帝の時代にはこの文字が使えなくなりこれと意味の似ている「驚」という字で置き換えられるようになりました。その後、景帝の諱として「啓」を避けなくてもよい時代となって、暦の上の文字は再び啓蟄に戻ります。日本に二十四節気が伝わったのは「啓蟄」の文字に戻っていた時代でした。そのために日本に二十四節気では「啓蟄」となりました。さてさて、本家中国ではどうなったかというと、一度は啓蟄に復したのですが、諱の影響で「驚蟄」が使われていた期間にこちらの方が定着してしまって、使い慣れた文字の方がよいと、再度「驚蟄」に戻されました。日本でももちろん、再び「驚蟄」に戻って(?)しまった時代の中国の暦も輸入されてきたのですが、幸いなことにこうした変更を行うことなく、啓蟄が使われ続けました(直さない判断をした方、どなたかは存じませんが先見の明がありました。ありがとう!)。こんな経緯があって、中国生まれの二十四節気の本来の文字(?)は、本家中国ではなくて、日本に残ってしまったという話でした。(「2021/03/07 号 (No.5272) 」の抜粋文)
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【菜の花】 (なのはな) [日刊☆こよみのページ]

【菜の花】 (なのはな)
 アブラナの花。また、アブラナ。春の季語。続明烏「菜の花や月は東に日は西に」(蕪村)。「菜の花畑」 《広辞苑・第六版》

 ととりつく島も無いような記述は広辞苑の解説より。日本の春の代表的な風景を選んだとしたら、一面に広がる菜の花畑の眺めはその中に必ずくわえられるもののはずです。一本だけ切り取って花瓶に飾ったとしても、菜の花はあまり見栄えのする花ではありませんが、一面を埋め尽くすような菜の花畑の眺めは春の日本の原風景と言っても過言では無いでしょう。菜の花は平安時代中期には渡来していたと言われますが、江戸時代に入ったころになると、その種から得られる油の需要が大きくなったことから、大量に栽培されるようになったものだそうです。日本における菜の花畑の風景の誕生と言えるでしょう。「日本の原風景」と思っている風景は、昔からただそこにあった風景ではなく、人々との関わりの中で生み出されて来た風景だったのです。日本の風景、日本の春、そうしたものは、ただただ在るものを残していけば良いというものではなく、それぞれの時代に生きるものが生み育ててゆくものなのだと言うことを菜の花の風景は教えてくれているようです。(「2021/03/06 号 (No.5271) 」の抜粋文)
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【木の芽雨】(きのめあめ) [日刊☆こよみのページ]

【木の芽雨】(きのめあめ)
 春、木の芽どきに降る雨で、その成長を助ける雨。徳島県では、「木の芽起し」「木の芽萌やし」、長崎県北松浦郡・鹿児島県肝属郡では「木の芽流し」などという。《雨の名前(小学館)から抜粋》

 二月の末の頃から三月の始めの頃になると、寒の戻りがあるとはいえ、季節は春と感じる日が増えてきます。そんな時節に降る雨が木の芽雨です。冬の間、身を固くして寒さに堪えていた木の芽の芽吹きをうながす雨です。東北の田舎育ちでしたので、遊び場は田んぼのあぜ道や河原や里山。木の芽雨の降る頃は、どの遊び場にいても「土の匂い」を感じました。土の匂いは、温かくてどこか湿った匂い。香りとも臭気とも違う、匂いではない匂い。巧く言えませんが、匂いと云うより気配といった類のものだったように思います。あの土の匂いの中に感じた「温かくてどこか湿った」ものは、この時期に降る木の芽雨のもたらした温かい湿りだったのでしょう。私が土の匂いを感じる頃になると、田んぼの畦には蕗の薹が顔を出し、河原では葦の若芽が姿を見せ、里山では蕨(わらび)や薇(ぜんまい)が頭をもたげ始めました。今週は久々に傘のご厄介になりました。雨に濡れればもちろん冷たくはあるのですが、だからといって寒い感じはありませんでした。もう冬の雨ではないのですね。(「2021/03/05 号 (No.5270) 」の抜粋文)
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